yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ペーター・ブロッツマン&ハン・ベニンク、デュオ『EIN HALBER HUND KANN NICHT PINKELN』(1977)。心趣くままに<遊ぶ・スサブ>ダダ。

イメージ 1

Bennink and Brötzmann parts 1, 2, 3

           

『遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界にほかならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかもしれない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証であり、またその限られた場における祭祀者の特権である。』(白川静『文字逍遥・遊字論』平凡社)。

ペーター・ブロッツマン
イメージ 2まことに痛快なデュオアルバム。いや、このアルバムだけではない。この二人のデュオパフォーマンスはことごとくが痛快だ。ペーター・ブロッツマン Peter Brotzmannハン・ベニンク Han Bennink。この二人にとって、音楽するとはイコール遊びなのだといいたくなる。これだけ遊んで熱く燃えるインタープレイもそうざらにあるとは思えないくらいだ。二人にとっても天の配剤、僥倖と言ってもいい出会いなのだろう。このデュオにはまじめくさった深刻さの無いのがすばらしい。音楽なんてのもこれくらいのゆとりを持ってやるほうが、鑑賞者ともどもミュージシャンにとってもいいのではと思える。あらゆる自由なパフォーマンスが、多くの楽器(アコースティックなそれらから自作の楽器、ありふれた、そこいらの音の出る限りでのガラクタなどなど)を手に取りインプロヴィゼーションされるのだ。きちんとした楽音でパフォーマンスがなされるわけではない。しかし、魅きつけ燃え立たせるものがそこには確かにあるのだ。心趣くままに<遊ぶ・スサブ>。これほどの痛快はない。「遊ぶ」はスサブとも訓む、またスサブは「荒ぶ」とも当てる。この「遊ぶ」が「荒ぶ」へとスサブとして転化してゆく。まさしくそれを地でゆくフリーパフォーマンスのアルバムといっておこう。美しさを求める音楽も悪くはないし、いいものだけれど、壊すダダ、心趣くままに<遊ぶ・スサブ>ダダもいい。
イメージ 3


ペーター・ブロッツマン&ハン・ベニンク関連投稿記事――

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/56317517.html ブロッツマンの『 ハンス・アイスラー・統一戦線の歌 』。師シェーンベルクを破門!?した社会主義リアリスト、アイスラーの強烈なフリージャズ・ヴァージョンであり、愛惜の挽歌。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/51452152.html ドイツフリージャズのヘラクレスペーター・ブロッツマン。その疲れを知らぬ豪放なアヴァンギャルドテナーサックス。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/25682039.html ヨーロッパフリージャズの金字塔、ペーターブロッツマンが詰まった3枚BOX

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/20573410.html <数寄>にあふれるブロッツマンのフリージャズ

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/17669488.html 悲鳴捻転、咆哮するジャズに耳ふさぐか<美神>

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/16171332.html イギリスに成果達成されたINCUS・フリージャズ

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/15197664.html 1969年代の現代音楽とヨーロッパフリージャズ