yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

阿部 薫ソロアルバム『なしくずしの死(MORT A CREDIT)』(rec.1975)2枚組み。ためらい、もどかしさ、ゆきづまりを聴くばかりだ。その凡庸なパフォーマンスが痛々しい。

イメージ 1

Kaoru Abe - Mort a credit (1)

              

   「限りなく死に近い生の絶頂点こそが究極的にジャズの美を保証するのかもしれない。」
             小野好恵

イメージ 2さてきょうは、29才という若さで自死?した伝説的サックス・ジャズミュージシャン阿部 薫(1949 - 1978)の2枚組みソロアルバム『なしくずしの死(MORT A CREDIT)』(rec.1975)の登場。いきなりですが、しょうじきつまらないアルバムです。フリージャズシーンでは異才、晦渋の評論家でありオーガナイザー、そしてプロデューサーで、これまた32才という早すぎる死で、その生を閉じた間 章(あいだ あきら、1946年 - 1978年12月12日)(奇しくももきょうが命日だ)のプロデュースにより制作されたアルバムと言うことで手にしたのだったけれど・・・。

• 1968年 ジャズスポット「オレオ」にてデビュー。
• 1970年 コンサート《解体的交感》に出演。同年レコード発表。
• 1973年 鈴木いづみと出会い、婚約。
• 1976年 長女誕生。レコード『なしくずしの死』発表。
• 1977年 鈴木いづみと離婚。ミルフォード・グレイブス『MEDITATION AMONG US』のレコーディングに参加。
• 1978年 デレク・ベイリー『DUO&TRIO IMPROVISATION』のレコーディングに参加。若松孝二監督『十三人連続暴行魔』に出演、音楽担当となる。9月9日 急性胃穿孔にて死去。
(WIKIより)

たぶん、阿部薫にとっての絶頂は70~73年頃であり、その頃がもっとも輝いていたのだろう。斯くいうも私は間章が招聘し、プロデュースして制作された1977年のミルフォード・グレイブスとのインタープレイの聴かれる『MEDITATION AMONG US』と1978年 のデレク・ベイリーとの共演『DUO&TRIO IMPROVISATION』ぐらいしか阿部 薫のプレイを聴いたことがないので、エエ加減な評価でしかないかも知れないが。ただ、動画サイトでのアップロードされた音源を聴く限りでは、絶頂期を先の年次辺りと思わざるをえない。この75年にレコーディングされたソロアルバム『なしくずしの死』の時点では、ためらい、もどかしさ、ゆきづまりを聴くばかりだ。その凡庸なパフォーマンスが痛々しい。


イメージ 3【母は、彼女は店の奥でもう三週間以上も脚を投げ出して座っていた。客も滅多に来なかった……それが又ひどい心労の種になった。……もう一歩もそとへ出られなかった……入って来るのはときどき彼女のおしゃべりの相手をしに来る近所の連中ばかりだった……連中はありとあらゆる陰口をたたいた……そうしては彼女を興奮させるのだった……とりわけぼくのことについちゃ、不埒極まる噂の数々……この下種どもはぼくがいつまでもぶらぶらしているのを見てやきもきしていた。どうして彼には仕事が見つからないんだ……え?奴らはひっきりなしに尋ねるのだった……あんなにも骨を折らして、とてつもない犠牲を払わせて、それでまだ親掛かりだなんて、想像もつかないこった!……まるで分からんよ……まったくの話、いったいどういうわけだろう!ぼくにかけた期待がこんなふうに砂の城だったのを見て、みんなそれ見たことかと言わんばかり……まったくだとも!わしらはお宅みたいなばかな真似はしないぞ!……そんなヘマは!連中はあけすけにそう言い放った!……しないとも!あくせく働いたりなんかしやしないさ、親の苦労を屁とも思わないような子供らのためになんか……自分の子供のために食うものも食わずになんて!いや願い下げだね、冗談じゃない!だいいちそんなことして何の役に立つって言うんだ?連中に外国語まで習わせるなんてのは特にね!いやはやまったく!笑い話にもなりゃしない!よた者を作るだけのことさ!糞の役にも立ちゃしない……証拠だって?はっきりしてるじゃないか!彼を見るがいい……パトロンだって?見つかるもんかね!ぼくはすっかり連中の信用をなくしちまっていた……要するにぼくは性根が良くないんだ!……ぼくを子供の時から知っているこの連中は、もうすっかり決め込んでいた!……そうとも。
母は、こんな話を聞かされて彼女は徹底的に叩きのめされてしまった、それでなくたって彼女の容態だ、膿瘍は痛みを増すばかりだった。今では太腿全体が脹れ上がっていた……ふだんなら、それでも彼女はこう言ったくだらない話しをいろいろ繰り返すのを控えるぐらいのたしなみがあった……だがこんなにもギリギリと痛みがひどいのでは、もうブレーキも利かなかった……ほとんど一言も余さず彼女はすっかり、パパに繰り返して聞かせたもんだ……彼はもう長いことかんしゃく玉を破裂させていなかった……彼はこのチャンスに飛びついた……そして、わしはおまえに生皮を剥がれた、かあさんだって同じだ、とわめき始めた。おまえはわしに赤恥をかかせた、おまえは度し難い一家の恥辱だ、なにもかもおまえが悪いんだ!おまえは疫病神だ!昔っからだ、これから先もだ!こうなったらもう自殺するばかりだ!おまえは前代未聞の性悪の人殺しだ!……父はどうしてそういうことになるのかは説明してくれなかった……ぼくとの間に雲の幕ができるほどシューシュー湯気を吐いた……髪に指を突っ込んで頭の皮を掻きむしった……血が出るまで頭を引っ掻いた……爪という爪が剥がれた……たけり狂って暴れまわり、そこら中の家具にぶつかった……箪笥を突き飛ばした……小さな店のことだ……狂人には狭過ぎた……傘立てがぶっ壊れる……磁器の花瓶が二つふっ飛ぶ。母はそのかけらを拾おうとして痛い脚を猛烈によじってしまう!耳のイメージ 4裂けるような悲鳴を挙げる……物凄い声だった……近所の連中が飛び込んで来た!】(ルイ=フェルディナン・セリーヌ Louis-Ferdinand Céline(1894-1961)『なしくずしの死・下』国書刊行会・高坂和彦訳より)

         写真:一人息子のセリーヌと両親

Un diamant noir comme l'enfer, pt. 8


【「私の本がどうしたって言うんだ。あれは文学なんかじゃない。じゃあ何かって?人生の本さ、あるがままの人生の本さ。人間の悲惨が私を圧倒するんだ[……]現代は、そもそもどうしょうもない悲惨の時代なんだ。哀れなことだ。人間は何もかも、自分に対する信念さえも剥ぎとられて、素っ裸なんだ。それさ、私の本てのは。[……]文学なんぞ、人々をへしつけている悲惨の前ではどうでも良いことさ。連中はみんな憎みあっているんだ……連中が愛し合うことさえできたら!」(1932年、「パリ=ソワール」紙インタヴュー)】(現代詩手帳、特集=セリーヌ、1978-11より)