yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)。愛惜、愛情深く叔父網野善彦の業績、その画期をなす歴史民俗概念誕生の内側の一側面を描いて興味深い。

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イメージ 2毎度のことながら、ダラダラとしたメリハリのない週休をおくってしまった。懐具合をおもえばこれで十分なのだけれど。お寒い人はジットしてるにこしたことはない。音楽を聴く、本を読む、それで十分だ。ところがだ。FIFAトヨタクラブワールドカップ(W杯)に地元大阪のクラブ、ガンバ大阪が出ているとなると、捨ておけない。篤姫最終回をやり過してでもやはりサッカー中継だ。連ドラなら再放送でも満足できるけれど、結果の分かったスポーツなど録画でみても面白くともなんともない。で、結果はガンバの勝利。次戦は<2007-08シーズンの欧州王者>イギリスのマンチェスターユナイテッド。名誉と(賞)金がかかっている本気の戦いを期待したいものだ。2008年の年間最優秀選手に選ばれたポルトガルクリスチアン・ロナウド、それにイギリスの若きヒーロー、ウェイン・ルーニーとの対戦が観れる。これは楽しみだ。といったところで、読書してんだか寝てるんだかのダラダラとした日中と晩食後のテレビ観戦に時間をとられて、きょうの音楽ブログはとうとう投稿までいたらず、そのダラダラと半覚半睡の情けない読書で手にしていた本の紹介で擱えよう。しょうじき読み終わってはいません。予告編、いやたぶん予告編で終わりでしょうが。日本中世史を起点に、歴史にヒトの活きた動きを、とりわけ権力・歴史の表舞台からから遠ざけられていた下層民・境界遊民・百姓・女性の動きを社会・権力構造との絡みでヴィヴィッドに活写して(中世)歴史学の画期をなした網野善彦のその業績の誕生を、叔父・甥と云う身近な視点から描いてみせた『僕の叔父さん 網野善彦』(中沢新一集英社新書)が当の本。久しぶりに覗いた古本屋で出合った本。もうこれ以上本を買ったところで先も短くホコリをかぶせるだけと、買わないようにしているのだけれど・・・もう病気です。さて、この本で、著者の中沢新一(1950 - )が、人類学の概念上での格別の意味(「権威の押し付けや義務や強制は発生しにくいというのが、人類学の法則だ」・同書より)ある叔父・甥の関係を、フランスの偉大な社会学エミール・デュルケーム Émile Durkheim(1858 - 1917)と『贈与論』での≪交換体系の分析を通じて、宗教,法,道徳,経済の諸領域に還元できない「全体的社会的事実」の概念を打ち出し、クロード・レヴィ=ストロース Claude Gustave Lévi-Strauss(1908 - )(なんと!つい最近100才の誕生日を迎えてなお健在のニュースが新聞で取り上げられていた)の構造人類学に大きな影響を与えた。≫(WIKI)とされているマルセル・モース Marcel Mauss(1872 - 1950)との叔父・甥を例に上げ、≪私は自分をマルセル・モースに比較するほどのずうずうしさはもち合わせないが、それでも、叔父である偉大な社会学エミール・デュルケームにたいする甥モースの、尊敬にみちた、しかしそれでいてどこまでも自由な感覚にみたされた関係から生まれる感情によく似たものを、この叔父にずっといだき続けてきたことはたしかだ。その友愛の感情のいかに深く、いかに得難いものであったかを、こうしてその叔父を失った今、空の青さのように痛感する。自分の人生におこった網野さんとの奇跡のような出会いの意味を考えると、因縁の霊妙さに強く打たれるのである。≫と記し、愛惜、愛情深く叔父網野善彦の業績、その画期をなす歴史民俗概念誕生の内側の一側面を描いて興味深い小冊子とひとまず云っておこう。読後得た印象等はいつの日か後日拙ブログにて顔を出すことだろう。それほどに中世史家・網野善彦の画期的な歴史民俗概念を聞き知ったことは私には衝撃であったのだ。それにしても、新書ですら一日で読めないとは情けなく、なんとダラダラした週休なのだろう。