yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

新実徳英『風を聴く・新実徳英作品集』。風を聴き、音を成し<おとなう>何ものかを感得する。ヘテロフォニックに音は起ち上がる。

イメージ 1

≪神はみずからものをいうことはない。神がその意を示すときには、人に憑(よ)りついてその口をかりるのが例であった。いわゆる口寄せである。直接に神が臨むときには、「おとなふ」のである。「おとなふ」「おとづれ」は神があらわれることをいう。それは音で示される≫(白川静『漢字百話』中公新書
イメージ 4
<※>(さい)
イメージ 3【音(オン・イン おと・ね)会意。言と一とを組み合わせた形。もとの字形は言の字を基本とする。言は、神に誓い祈る祝詞(のりと)をいれた器である<※>(さい)の上に、もし偽り欺くことがあれば入れ墨用の針(辛)を立てている形で、神に誓って祈ることばをいう。この祈りに神が反応するときは、夜中の静かなときに<※>(さい)の中にかすかな音を立てる。その音のひびきは、<※>(さい)の中に横線の一をかいて示され、音の字となる。それで音は「おと」の意味となる。音とは神の「音ない(音を立てること。訪れ)」であり、音によって示される神意、神のお告げである。神棚の両開きの扉(門)の前の<※>(さい)の中から、夜ふけに神の訪れの音がすることを闇<あん>(やみ、くらい)といい、また暗いともいう。その音はたどたどしくて聞きにくいものであるから、ことばの不明瞭なことを瘖<いん>(ことばの障害)という。「おと」のほかに、楽器の音や人の消息などの意味に用い、「ね、ねいろ」の意味に用いる。】(白川静「常用字解」より)

イメージ 2さてきょうは・・・、とひとこと口をついて来たものの念のため拙ブログの書庫を覗いてみた。新実徳英のアルバムをはや4稿を投稿していた。以下だった。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/53742181.html 新実徳英『創造神の眼・管弦楽作品集』音響の多彩さ、スケール感、物語性は、抜きんでて特徴的だといえるだろうか。ネオロマンティシズムもいわれなしとしない。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/53505175.html 新実徳英光の園』(1997)余韻に漂うネオロマンティシズム。 遍く降りそそぐ至福の光、浄福のうちに響きは息づき満たされる。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/53264058.html 新実徳英『作品集』。繊細にしてドラマティック。土俗的、神秘的、宇宙的、スケールの大きさを深い余韻とともに聴く。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/53177790.html 新実徳英『風神・雷神』(2004)。己を空なしう天籟、地籟を聴く。その余韻の独特はすばらしく深い。繊細にしてドラマティック。仏性一陣の風吹き抜け、その霊性的風韻のすばらしさに感じ入る。

けっこう聴いているものだ。で、きょうは、5稿目の投稿となる。例の如く中央図書館でのネット予約借受のCD、新実徳英作品集『風を聴く』をとりあげよう。さて、「風」は何ものかの去来を告げ知らせる。風気、風月、風色、風位、風韻、風光、風土、風景・・・。形なく吹く風の告げ知らせる<もの>に<霊=モノ>の字を当てても何らの齟齬なきが如く、私たちはその動向の気配に、自然とともにその長きを生きてきた。風景とは景色であり<気>色という訳だった。すでにして斯く自然を分節するとき、背後にひそむ動向をもって告げ知らせる何ものかを生きているのだ。それら何ものかの訪れは形なき風と共なる音連れてやってくる。<おとなう>というわけだった。音は空気を媒質とする。風は自然を媒体にその存在を告げ知らせる。木の葉がかすかに揺れ、音を成す。もはやそれだけで私たちは風を知り、その音連れを聴き、<おとなう>何ものかを感得する。


【★―例えば、暑いとき、「暑いな」と思う。風が吹いたりしている時、言葉にしないで、ふと何かに触れたと思えることがある。

▲―例えば「無を感じる」という形でね。

★―自然とはむしろ、その「無」に近い。・・・・】(松岡正剛、津島秀彦共著『二十一世紀精神』

【フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言えるような瞬間がありますね。】(タモリVS松岡正剛『愛の傾向と対策』

≪耳をすます…。やがて私たちはなにかを聞く・・・≫そうした思索を『風を聴く音を聴く』(音楽の友社)と著しているそうだ(私は読んでいないが)。

三つの線の音(クラリネット、ヴァイオリン、チェロ)が起ち上がりヘテロフォニックに絡み合って響くさま、まさしく雅楽の響きだ。雅に堕す以前の原野に韻気深く吹き荒ぶさま、みごとな「1. 風音(かざね)、クラリネット、ヴァイオリン、チェロのために(1989)」。チェロの、気息するどく起ち上がり韻として時空に響き渡る荒ぶる情念のさま聴かせる「2. チェロ独奏のための横豎(おうじゅ=横・おうとはヨコ、豎=じゅとはタテ、また各々は時間・空間を意味する)(1987)」これも見事だ。チェロ独奏曲の秀作としてレパートリーに刻み込まれることだろう。以下三つの邦楽器作品もいい作品ばかりだ。現代邦楽はこうでなくては!の印象を持ち確信したのだった。総じて<音が起ち上がる>風情だ、それもヘテロフォニック【=音楽のテクスチュアの一種で、モノフォニーの複雑化したもの。つまり、同一の旋律を奏でる様々な奏者や歌手が、任意で別々に動いたり、リズムやテンポを微妙にずらしたりすることで異なった装飾や音型が生じ、偶発的に瞬間的なポリフォニーを生ずるようになったものをいう。】(WIKI)に絡み合う・・・といった旋律美の複層に斬新と、自然のもつ深奥、隠しもつエネルギーを聴く印象でその情趣面白く堪能できた。

≪耳をすます…。やがて私たちはなにかを聞く・・・≫
風を聴き、音を聴く。なんと精神の内的緊張とエネルギーを必要とすることか。
   ?H2>風は天の息である。

新実徳英『風を聴く・新実徳英作品集』

1. 「風音(かざね)」クラリネット、ヴァイオリン、チェロのために(1989)
2. 「チェロ独奏のための横豎」(おうじゅ=横・おうとはヨコ、豎=じゅとはタテ、また各々は時間・空間を意味する)(1987)
3. 「風韻2」3本の尺八のための(1988)
4. 「青(おう)の島」二面の二十絃筝のために(1989)
5. 「風を聴く」2本の篠笛、3本の尺八、三面の二十絃筝、一面の十七絃筝のための(1990)