yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

吉田秀和の『永遠の故郷<夜>』。

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Renee Fleming - Strauss Four Last Songs - Strauss' 4 Last Songs - Im abendrot Renee Fleming sings the 4th of Strauss' vier letzte lieder. Proms, 2001.

        


<第4曲「夕映えのなかで」 長い旅をしてきた二人が、夕映えのなか、ある静かな小高い場所で眼下の田園を見渡している。音楽は、夕焼けの中に広がる非常に雄大な風景を表すかのように始まる。その二人がいる丘から二羽のひばりが空に昇っていく。そういった「広々とした、静かな平和」を感じながらも、人生のさすらいに疲れた二人は「死」を目前に予感している。その中で憩い、浄化されることを思い描いているかのように音楽は静寂に向かう。>YAMAGUCHI Hiroyuki's Web Siteより

       夕映えの中で (詩:アイヒェンドルフ(Josef von Eichendorff)) Im Abendrot

       わたしたちは手をとりあって
       苦しみや喜びの中を歩いてきた
       そしていま静かな土地の上に
       さすらいの足を止めて憩う

       まわりの谷は沈み
       空には闇が近づいている
       二羽のひばりだけが夜を夢見るように
       夕もやの中に昇っている

       こっちに来なさい、小鳥たちはさえずらせておこう
       もうすぐ眠りの時が近づくから
       この二人だけの孤独の世界で
       はぐれないようにしよう

       おお、広々とした、静かな平和よ!
       夕映えの中にこんなにも深くつつまれて
       わたしたちはさすらいに疲れた
       これが死というものなのだろうか


 「聴いた!」ということは、「書いた!」ということ。それが私の音楽評論の始まりだった。
                              ――吉田秀和

イメージ 2だいぶ前のことだけれど書評などで、話題になって取り上げられていた90才半ばにしていまだ現役の音楽評論活動を為している吉田秀和の『永遠の故郷<夜>』が、やっと図書館の貸し出し予約で順番が廻ってきて手にすることができたのでさっそく読ませてもらった。この本に興味をもったのは、ネットでの紹介記事≪愛も死も越え 吉田秀和さん、近刊『永遠の故郷』を語る≫を読んでだったのだ。ふだんと言うより、コトバ(語学不如意)の問題もあり、ほとんど歌曲は聴いてこなかった。オペラのアリアなどは誰しもと同じ、歌詞の内容曖昧なままでもメロディーの美しさ、親しみやすさなどがあって聴いていたに過ぎない。それとシューベルトの「冬の旅」。そんな程度の音楽鑑賞なので、多分ふつうなら手にすることのなかった本である。ところが、このネット記事で、
≪「文学に一番近い、スレスレみたいなところでやってみたかった」。なぜなら、「死ぬから」と一言。 ・・・ 「もうすぐ死ぬから、今までやらなかったことをやってみようと思って」・・・≫
これはショックだった。こうも直截にいわれると・・・。≪「死ぬから」と一言。 ・・・ 「もうすぐ死ぬから、・・・」≫。あたりまえなんだけれど人間は100パーセント確実に死ぬ。死へと向かう存在だ。その死への先駆的覚悟性ハイデッガー)において在る現存在が、決然と語り、紡ぎだす言葉を味わいたかったのだ。「死ぬから」・・・と澄明透徹な決然のまなざしで音楽を、生を、死を語る知性のことばの数々を慈しみ味わいたかったのだ。
長年連れ添った妻との永訣のあと、≪「何年も夜でした。つらかったよ、僕」。03年11月にバルバラさんが亡くなったあと、しばらくは音楽を聴く元気もなかったのだ。
 「最初に聴けたのは、バッハ。モーツァルトでさえ、僕が、僕が、という声が聞こえ、わずらわしかった」≫。そうした<夜>の日々を凌ぎ語りだしたのは、詩と音楽。こころを歌う歌曲の世界だった。

ドイツ滞在中の1954年にリヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864 - 1949)の最晩年、死の前年に作曲された文字通りの『四つの最後の歌』を滞在地ミュンヘンでの初演を聴く機会をもったとのこと。

≪音楽の与えた感銘は鮮烈だった。最後の歌が終わって、まず来たものは長い長い沈黙。拍手は、せっかくの美人を暫時ステージで立ち往生させたあと、やっと来た。しかし一旦始まったとなると、猛烈極まりないもので、いつ果てるともなく続いた。いくらドイツ人の反応がゆっくりしたものだといっても、異常な長さだった。でも、それも無理はなかった。人々は今、自分たちの巨匠の生んだ最後の作品をきき了えたところだ。その人は光輝赫々たるキャリアのあとに襲ってきた汚辱まみれの晩年を非ナチ化裁判の末、やっときり抜けたかと思ったら、翌年死んでしまったのである。その人が死ぬ前年に書き上げた文字通りの最後の四つの歌。・・・彼の最後の歌は比類のない練達の業に支えられ、意識の明確と幻想の深さとが入り混じる音楽、驚くばかりの輝きと闇とが隣りあった音楽、そうして生と死が絡みあう場としての音楽となった。≫(『永遠の故郷』・四つの最後の歌)

≪・・・では、改めて、こう問いただしてみよう。なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくありうるのか?美しくなければならないのか?
なぜならば、これが音楽だからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そして死んだ。そのあとに「美」が残った。≫(同上)



吉田秀和、投稿済み記事――
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/49932960.html 時代創成のパトス、音楽評論家・吉田秀和『言葉で奏でる音楽』NHK教育テレビ。

リヒャルト・シュトラウス、投稿済み記事――
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/50491856.html 流麗な美に彩られた音達のなんと情感豊かな表情であることか。哀しみに満ちたリヒャルト・シュトラウス『変容(メタモルフォーゼン)Metamorphosen』。