yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

池辺晋一郎『交響曲第6番<個の座標の上で>』(1993)ほか。<なんでも書けちゃうという才能>が・・・。テツガクだ。

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KAGEMUSHA Theme - Shinichiro Ikebe _ AKIRA KUROSAWA (1980)

          

イメージ 2きょうは、2回目の登場となる池辺晋一郎のアルバム。中央図書館のネット予約借受のもの。まず一言でいって、おお!<スペクタクル>といった印象であった。まさに映画音楽で活躍華々しいのも肯けようというものだ。なんでも書けちゃうという才能プラスこのスケール。とりわけ1993年作の「交響曲第6番<個の座標の上で>」などさぞやナマオケではマッシヴな耳つんざくばかりの音量、音圧でその迫力に圧倒されることだろう。それよりは小ぶりとはいえ初期の1967年作の「交響曲第1番」も志向性としては同じで上記の印象は余り変わらない。ところで、作曲家自身の、自らもたずさわる現代音楽への反省を込めた批判的なことばがある。いわく「極端な主知性、さらにその集約であるペダントリー、方法の教養化、逆に模糊としたイマジネーションへの埋没、浅薄なアノニミティ(無名性)への信奉、ポップスとの安易な結婚、無思慮な復古性、等々。」(アルバム解説・石田一志、より)これは、1984年にもたれた演奏会のプログラム用ノートに記されていたことばのよし。まっとうではあるけれど。ということで、それらの批判的諸点を踏まえての解答、試みとしたのがこれら作品ということなのだろう。だとすれば、いささか空しさを覚えざるをえないのが正直なところといっておこうか。この作曲家の一回目の投稿のタイトル≪池辺晋一郎『池辺晋一郎:管弦楽作品集』(2004)。<喝>!、単なる意匠を越えた精神の裏づけのありやなしや。こうでしかありえないと云ったモチーフ、イメージ・・・全体を貫くもののありやなしや。≫というものだった。今回もそうした印象の凡そは覆されるものではなかった。贅沢なことだけれど、なまじ<なんでも書けちゃうという才能>が、今一歩の思索の深みへの障害となっているように私には思えるのだけれど、さてどうなのだろうか。ようするにテツガクです。辛口にすぎるかもしれないが・・・。
と云うことで、以下一回目投稿記事より引用再掲(記事リンクしているので不必要かも知れないが)してこの稿擱くことにしよう。

【旧い(1973)批評記述なのだけれど次のようなことばがみえる。以下のごとくだ。≪・・・しかし、考えてみると、このようないわば実用音楽のジャンルにどっぷり浸かると、自分の“作品”を作曲するときにもある影響をもつことがあるように思う。たとえば、どんなスタイルでも書けるという自信めいたひとつの錯覚に囚われることもあるのではないだろうか。≫。≪・・・そして、いまそういったふたり(池辺晋一郎三枝成章――引用者注)にもっとも必要なのは、これまで受賞してきた才能でもなく技術でもないだろう。それは音楽の認識そのものの変革を展開するための創造的な行動であり、思考であろう。それは、たんなる前衛的な技法でもなく、奇怪なものへのアプローチでもないはずのものだ。池辺晋一郎の「全体をみる」ことのためには、まず音を「聴く」ことへの緻密で禁欲的な精神が求められるように、ぼくにはおもえる。音楽は音だけによる行動であるとともに、それが精神的知性的な内部変化をおこさせるものであるからである。音をコントロールするまえに、音のもつそうした未知の力を「聴く」ことが“作曲”することでもあるのではないだろうか。≫(1973)(秋山邦晴「日本の作曲家たち(下)」音楽の友社より)とあり、そして両者にとどまらず作曲にたずさわる者たちには≪明晰な認識を怠らない勇気こそが、いまわれわれには必要なのではあるまいか。≫と括っている。至極もっともなことであり、且つその多くをなされていないことなのでは、と単なる一現代音楽ファンにすぎない弩シロウトの私にも思える。そうした事どもに思いをいたしたCD鑑賞だった。これも、いつもながらの図書館所蔵のもののネットで借り受けたもの。最後に、けっして作品が劣るなどとは言っていないことを申し添えておきたく思う。】

≪人の五官は、視覚と聴覚とを主とする。見と聞とが、外界に対する交渉の方法であった。しかしそれは、単なる感覚の世界の問題ではない。「みる」とは、その本質において、神の姿を見ることであり、「きく」とは、神の声を聞くことであった。そのように、物の本質を見極める力を徳といい、また神の声を聞きうるものを聖という。徳は目に従い、聖は耳に従う文字である。≫(白川静「文字逍遥」・平凡社))

神の声を聞くことのできる聰明の徳を聴といい、それで「きく」の意味となる。つま先で立って神に祈り、神の声を聞くことのできる人を聖といい、聖職者の意味となる。また神の声を聡(さと)く理解することを聡(そう)(聰。さとい)という。聴は聞き入れて「ゆるす、まかせる」の意味にも用い、聴許(聞きとどけて許すこと)という。(白川静「常用字解」