yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

群遊同人発刊する『芸術・国家論集』(1969)。≪遊行伶人の集団・柿本族の人麻呂≫が代詞射出する律動言。国家は転位しえたか「柿本人麻呂物質」(田中基)!?。

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代作歌(詞)人、歌聖と称されている柿本人麻呂の<国文学=物理学手稿>と銘打っての驚天動地な国家イデオロギー飛来転位の物語。つまりは魂(ヒ)を物理学する<魂理学>。かつてわれらが青春必読の、カール・マルクスの書「経済学・哲学草稿」のもじりであることは言うまでもない。そして驚くことに掲載論考タイトルはなんと「柿本人麻呂物質壬申の乱戦闘の弾痕症のうち最大の病者・人麻呂のカルテ>」!?であった。今をときめく壮大な「情報の(歴史)」編集人にして「情報と文化」を語り、その博覧強記で「千夜千冊」を果敢、刊行し遊学の世界を驚かせた、オブジェ・マガジン「」の創刊者、松岡正剛はこの「人麻呂物質」について(周辺事情ともども)語る。かれ松岡セイゴオもまたこうした観念世界(呪物と観念の発生というコンセプト、あくまでも物質=自然を本源とし、それゆえ意識とは覚醒的物質と定義する)に在ったことをそれはモノ語っているといえようか。

観念は、もともとオブジェクトに憑かれていた、という呪われたる命運を担っていた!」(カール・マルクスドイツ・イデオロギー」)
そう、ここらあたりに思想的原基をみるといえそうだ。「遊」創刊は1971年であり、今日ここに登場する群遊同人発刊する『芸術・国家論集』創刊は1967年であった。そして「柿本人麻呂物質」の画期的コンセプチュアルな打ち上げは第2集、1969年10月の事態出来(しゅつらい)だった。これはわが青春にとっても驚き以外ではなかった。さて、くだんの同人、田中基の「人麻呂物質」だった。
                      写真→裏表紙
イメージ 2【◎田中基の「人麻呂物質」もこのような接近の果てで得られた飛躍的命名であったとおもわれる。人麻呂は「人=麻呂」であって、「人」は一人称を、「麻呂」は「丸」すなわち「物質」を表象している。分解するならば、「人麻呂という一人称を語ろうとした物質である人麻呂」──そんな因数分解になろうか。彼自身の解説によればざっと次のようになる。「689年4月13日に、持統の唯一の子息である草壁皇子が突然死んだ。国家権力移行のために持統が挺身努力して画策しようとしてきた当の本人が消えた。恐らくは、大海人皇子の死去によって一瞬浮かび上がったガランドウが、ふたたび、今度は致命度を越す量をもった襲って来たにちがいない。内側をガタガタに抜かれて人形(ひとがた)になった持統は、おのれの魂の爆発と散乱を防ぎ止めるため、はじめて遊行伶人の集団・柿本族の人麻呂に命じて、私にはどうすることも出来ない絶対なる他者である私の内側のガランドウという物質を律動言にして射出してくれ、と依頼した。柿本人麻呂は、この命令をよし、とした」
◎彼の描く人麻呂はこういうことである。人麻呂は代作詞人だった。その人麻呂が初めて詠んだ歌が、壬申の乱の17年後に持統の依頼によって詠んだ長歌だった。では、人麻呂は他者であり権力者でもある持統に代って何を詠みえたのか。あるいは何に代りえたのか。】(『遊』9号「存在と精神の系譜」「国家と言語の分岐点に立った観念の話」(松岡正剛))


外来魂(マレヒ)の着座<真床襲衾(まどこおふすま)>をもって継承天皇を生成し、それを実体とする国家成立。その正統性を呪言をもって≪射出≫する代作詞人・柿本人麻呂のすばらしい律動言、その長歌が次の如くだ。

≪柿本朝臣人麻呂作歌一首≫
日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]

天地之 <初時> 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]
   天地(あめつち)の 初(はじ)めの時し、 遠方(ひさかた)の 天の河原に
   八百萬・千萬神(やおよろずちよろずかみ)の、 神(かみ)集(つど)ひ 集ひいまして、
       神謀(はか)り 計(はか)りし時に
   天照らす 日女の命(ひるめのみこと) 天(あめ)をば 治(し)らしめせと、
   葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天地(あまつち)の 寄り合ひの極み
       治(し)らしめす 神の使者(みこと)と、
   天雲(あまぐも)の 八重かき別けて 神墜下(くだ)し 坐(いま)せまつりし
   高照らす 日の皇子(みこ)は 、
   飛鳥(あすか)の 浄見(きよみ)ヶ原に 神ながら 太敷(ふとし)きまして、
   皇(すめろき)の 敷きます国と 高天(あま)の原 岩戸を開き、
       神飛上(あが)り 上りいましぬ
   我が王(おおきみ) 皇子(みこ)の命(みこと)の 天の下 治(し)らしめしせば、
       春花の 貴(とうと)からむと、
       望月の 満(たたは)しけむと、
   天(あま)の下 四方(よも)の人の  大船の 思ひ憑(たの)みて、
       天つ水 仰(あお)ぎて待つに、
   如何様(いかさま)に 思ほしめせか、 つれもなき 真弓(まゆみ)の岡に
       宮柱(みやばしら) 太(ふと)敷きいまし
       殯宮(みあらか)を 高建(し)りまして
   朝毎(あさごと)に 御言(みこと)問はさぬ 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬる 、
   そこゆえに
       皇子(みこ)の宮人 行方(ゆくへ)知らずも 。

                (田中基・改釈)

この韻律は、なにやら現代詩人・吉増剛造を呼び起こす・・・「古代天文台に雪降り積り・・・」。





祝詞大祓詞」(おおはらひのことば)中村建日