yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『宍戸睦郎作品集』(1998)。音色変化の少ない平板な仕上がり。音そのものへの身を切り刻む本質的な認識作業、作家、作品のレーゾンデートルであるその意識が希薄に終わった・・・その帰結としか私には思えない

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私は、現代ほど、芸術家にとって困難な時代はないと思っております。過去の偉大な芸術家に比べ、現代の作家たちは多分にヒステリックであり又、比較にならない程多くの難解な技術が披瀝されています。創造という行為には“これが自分である”というものを、どんなに少しでも示さなくてはならないところに悲劇が準備されています。人間に関係のない技法と実験が独走し、それによる公害現象が現れ、その結果、現代のある種の作品には、歴史の積みかさねによる疲労が感じられるのです。20世紀後半の異常ではない正常な人間を書けたら、作曲家としてこれ以上の栄光はないという思いのもとに、仕事を続けてまいりました。そして、現在の私は、音楽の根源的存在としてのベートーヴェンを、ますます深く認識しております。私が一貫して考えていることは、もう音楽は、美しいだけでは駄目であり、復活すべきは、美ではなく、生命それ自身ということなのです。(宍戸睦郎「作曲について思うこと」CD解説ノートより)
イメージ 2これがこの作曲家・宍戸 睦郎(ししど むつろう、1929 - 2007)のアルファーでありオメガといえそうだ。しごくもっともな心情吐露であり、本音なのだろう。それがいっそう胸にひびく。音楽はことばで理解するものではなく、音、そのコンポジションであることはいうまでもないことだけれど・・・。思いと(音)表現が相反することは無いでもないことで・・・それだけに音源紹介伴なうことが出来ないのがもどかしくはある。ことば=思念のみを捉えて音楽作品に対してアーダコーダを言いたくはないけれど、たとえば「交響曲」(1994)。端的に言って、いい作品ではないと言っておこうか。標榜希求する「生命それ自身」の表徴としてエネルギッシュであり、それはそれなりに聴かせはするけれど音色変化の少ない、表情のとぼしい平板な仕上がりに終わってしまっている(もはや忘れられた堀江某の想定内ということばがあったが・・・。意外性、驚きからくる新鮮な思いがつたわらない)と言っておこうか。そのことはたぶん、音そのものへの身を切り刻む本質的な認識作業、作家、作品の存在根拠、レーゾンデートルであるその意識が希薄に終わった・・・、その帰結としか私には思えないのだが。至極まともな問題意識が斯くなる音楽のコンポーズで終わってしまったことは、作曲家の資質もさることながら、どこか納得がいかないのだけれど。何なのだろうこれは。「音楽の根源的存在としてのベートーヴェンを、ますます深く認識して」いるとのことだけれど、私には戦前・前世代のドイツ古典派音楽探求習作苦闘世代といえる諸井三郎の内なるパッションほどには感じるものが無かったと言ってこの稿擱くとしようか。師をフランス楽派の池内友次郎(いけのうち ともじろう、1906 - 1991)にもつのだけれど。たしかに、終生≪創造という行為には“これが自分である”というものを、どんなに少しでも示さなくてはならないところに悲劇が準備されています。≫であったのだろう。はてしの無い自分探しの旅。先にも言ったけれど、音源紹介伴わないこうした言葉への評断引用は一方的で空しいのだけれど・・・。きょうも引きつづいて図書館ネット借受でのアルバム紹介でした。



『宍戸睦郎作品集』(1998)

1. 「交響曲」(1994)
2. 「鍵盤のための組曲」(1968)
3. 「合唱組曲奥鬼怒(おくきぬ)伝承」(1985)