yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ『コンパス「内なる問いのリズム」(1969~70)ほか。微細な音の移りゆき、その表情の豊かさ。複層的な色合いの豊かさはさすが。

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Hans Werner Henze: Toccata Mistica, for Piano (1994)

          
          投稿音源のものではありません。
   内容豊かな公理体系にあってはことごとく
   論理式はシステム自身の範囲において
   証明も論駁も
   不能なものとして存在する
   勿論そうでないとシステムは
   本来的に無定見

   (エンツェンスベルガー Enzensberger「ゲーデル頌」より、訳・吉田耕一)
きょうで、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェのアルバム投稿は5稿目となる。やはりそれなりに気になっていたとみえて若き日のレコード蒐集に一応は目配せしていたようだ。『コンパス(内なる問いのリズム)~ヴィオラと22人の奏者のための音楽』(1969~70)と、『ヴァイオリン協奏曲第2番~独奏ヴァイオリン,テープ,声と33人の器楽奏者のための』(1971)の2作品が自作自演ということで、自らがオケを揮ってのアルバムがそれだ。微細な音の移りゆき、その表情の豊かさはさすがとひとまず云っておこうか。それも単線的な音色の貧弱ではなく、複層的な色合いの豊かさを終始緊密に保ちつつ激することも無く、むしろなだらかな起伏で最後まで突っ切る音楽センス。同世代のシュトックハウゼンのような飛びっきりの華々しいアヴァンギャルドではなく、独自の折衷的立ち位置を保ちながらの作品のクォルティを維持している見事さは、やはり並ではないということの証左なのだろうか。リヒャルト・シュトラウスなどを先人にもつ強みであり、ありがたさというべきか。それゆえの音の≪複層的な色合いの豊かさ≫厚み。それらは作曲家本人の資質でもあるのだろうけれど・・・。それは『コンパス(内なる問いのリズム)』(1970)にてつよく感じることだ。その意味でよくできた作品であり、私好みの音つくりで聴かせる作品だ。ところでB面の『ヴァイオリン協奏曲第2番』には、詩人エンツェンスベルガーの「ゲーデル頌」なる詩文がテープより流され、オケと共にパフォーマンスされるという趣向になっている。この作品のほうが先の『コンパス(内なる問いのリズム)』より直接的でエモーショナルだ。力強い。

≪「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。それは、その理論体系に矛盾がないことを、その理論体系の中で決して証明できないということであり、つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない。」≫(墓碑銘は、「されど、死ぬのはいつも他人」。マルセル・デュシャン)というゲーデル不完全性定理

≪つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない。≫

外部性、その関係性の内部(論理、存在)への繰り込みという絶えざる問いかけ、闘争。それゆえのせめぎあう音たちのすがた。当然にそれは力強くエモーショナルでなければならない。




ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ『コンパス「内なる問いのリズム」(1970)、『ヴァイオリン協奏曲第2番』(1971)

コンパス「内なる問いのリズム」~ヴィオラと22人の奏者のための音楽(1969-70)(COMPASES (PARA PREGUNTAS ENSIMISMADAS) - MUSIC FOR VIOLA AND 22 PLAYERS)

ヴァイオリン協奏曲第2番~独奏ヴァイオリン,テープ,声と33人の器楽奏者のための(1971)(VIOLIN CONCERTO NO.2 - FOR SOLO VIOLIN, TAPE, VOICES AND 33 INSTRUMENTALISTS)