yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

小泉文夫『人はなぜ歌をうたうか』(学習研究社)。<西洋音楽には和声や対位法があり、日本やアジアの音楽にはそれがない。しかし、だからといって西洋音楽がすぐれているという認識を、私は疑問に思っています。>

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     人間は生きるために拍子をそろえる  (小泉文夫

音楽鑑賞ばかりでなく、たまには書物を読んで脳みそをマッサージしなくてはと、図書館のネット借受で、民族音楽学者・小泉文夫の著作を手にした。タイトルは『人はなぜ歌をうたうか』(学習研究社)といったいささかシリアスに過ぎるかと思わないでもないけれど、超人的な探究心のもとフィールドワークに裏づけられた考察、思索が一般向けに述べられている。ひじょうに刺激的な書物だ。<人間にとって音楽とはなにか>。今日取り上げるこの著作の前に、これまた読むものをたじろがせるタイトルの『音楽の根源にあるもの』(青土社、新装再版・平凡社ライブラリー)もそのタイトルに惹かれて読ませていただいた。≪音楽をもたぬ人間社会は存在しない≫。 というごとく、人が歌を唄う背景には、いかなる歴史、社会構造が横たわっているのか?そこには興味の尽きないことが満載、いろいろと考察されていた。が、私にとっていちばん興味深いところであった箇所を抜書き引用して備忘録とし、今日の投稿としよう。

「しかし日本では明治以来、ややもすれば自分の根ざしている文化を無視し、民謡も雅楽も新内(しんない)も全然入る余地のないほど西洋音楽ばっかり学んできた。確かに西洋音楽には和声や対位法があり、日本やアジアの音楽にはそれがない。しかし、だからといって西洋音楽がすぐれているという認識を、私は疑問に思っています。和声や対位法のある民族を調べると、そのほとんどが未開社会です。東南アジアでも誰もこないような山奥、あるいは太平洋の島々に散らばっているポリネシアメラネシアなど、いわゆる文明社会の影響をあまり受けない地域の中にある。私がアフリカでもって調べた結果、たとえば日常生活で互いに協力しながら生活する社会で、和声や対位法的な歌い方をしている民族でも、ひとたび王様の権力と結びついたものになりますと全部ユニゾンになる。人類の文明も実はそうで、アジアは非常に早くから、そういう支配者が現れ、何千年もの支配という背景の中で、古い和声的なものを失っていったのではないか。
では、なぜヨーロッパに、あのようにすぐれたハーモニーや対位法があるのか。それは一言で言えば、急激に高度成長した民族だからです。確かにギリシャ・ローマの文化はありましたけれども、それはヨーロッパを完全に支配したものではありません。ヨーロッパは、つい先だってまで、そんなに発達した国々ではなくゲルマン民族の部族社会が根強く残っていました。だから、生き生きとした野性味が残っている。何人もの人の違ったパタンを組み合わせて全体に一つのものを作っていくという和声や対位法が失われなかった。そういたしますと、実は私たちはヨーロッパよりもずっと先に発達したために、ヨーロッパが今でも持っているバイタリティようなものを何千年もの文明の発達の過程で失ってしまっている、私はそのように考えます。
そして、もっとショッキングなことは、個々の音一つ一つでも、一つの音の中に音色の変化や強弱、余韻や間(ま)などあらゆるものを籠めようとする日本の音楽と、できるだけ純粋な音を出そうとする西洋音楽は、もう簡単にその間を埋められないくらい決定的に違う。それがメロディの段階にいくと。もうほとんど取り付く島のないくらいに違う。ですから、日本のメロディを五線譜に書くということ自体が無理なことで、それを工夫して無理に表したとしても、それをピアノのような西洋の楽器で弾きますと、日本の旋律のもっているいちばん重要なものが消えてしまう。それは西洋のベートーヴェンのものを三味線で弾いたら全然価値がなくなってしまうのと同じようなものです。・・・だから西と東の違いというものを、あまり楽観的に考えないほうがいいんです。」(上記書、P289・西洋と東洋の違い)



民族音楽関連投稿記事――

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/59756991.html 『決定版!癒しのアジア』(2003)。我がニホンジンの来し方の響きのごとく懐かしさと“癒し”を覚えるのもごくごく自然なことなのだろう。


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