yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『世界を聴いた男』(岡田真紀・平凡社)。民族音楽学者・小泉文夫の使命、天命としての疾駆せる人生。

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あらゆる音楽は民族的である。音楽はその根本的特質を自己に適する言語から抽き出す (ジャン・ジャック・ルソー)

【三枝子や兄、姉の見守るなか、首を左右に動かして、声の出ない口で「アリガトウ、アリガトウ」といったのが、彼の最後のメッセージであった。・・・・・享年五十六歳、死因は肝不全と記された。その死は「フル回転した駒が立ったまま止まってしまった。」(大宮真琴)といえるものだった。】(『世界を聴いた男』(岡田真紀・平凡社))

まさに民族音楽研究への学者・教育者の枠を超えての八面六臂の超人的な仕事ぶりで、人生を駆け抜けて行ったという印象をつよくもつ。先日の『人はなぜ歌をうたうか』(学習研究社)に引きつづいての民族音楽学者・小泉文夫の『世界を聴いた男』(岡田真紀・平凡社)の読書。これも図書館ネット借受のもの。こちらは自伝もの。月並みですが、有為のいい人は早く身罷る。(長生きしている人はつまらぬとは言っておりません。)まさに使命です。天命といっていいのかも。それを全身に背負った人生。会社組織でもそうだけれど、有能であればあるだけ責任ある仕事が廻されてくる。余人をもって代えがたいと云うことなのでしょう。(「余人をもって代えがたい・・・」と言いつつイスにしがみつき、ポストをたらい回しにし、天下る御人は五萬といますね。斯く、ほんとうはそうざらにいるわけではないのですが。)ところで、この本の書かれてある内容・実質からすればつまらぬことですが、小泉文夫が、旧制中学を飛び級進学して一高に入るほどの超秀才であったこと、おまけに天才的な語学力の持ち主であったこともはじめって知った。しかしこのことと、民族音楽研究への尋常ならざる情熱、天命としての身を挺しての打ち込みようとは直接関係はないのだけれど・・・。

「それにしても、音楽というのは、結局何かのためにあったり、何かを表現する手段であったりするものではなく、本来人間の存在そのものであり、『うたう』ということや『踊る』ということこそ『生きる』というのと同じ意味なのだと感じさせられた。『部族』や『村』という集団保証がなく、一人一人が孤独に生きているジャングルの人に、音楽だけ合唱のスタイルがあるわけがない。こんなあたり前のことを見るために、わざわざ出掛けて行った私はよほどのバカだといわれても、返すことばがない。」(本書より、小泉文夫「人間の歌の根源にあるもの」)

イメージ 2「あと十分で死ぬというときに、何か二曲だけ音楽が聞けるとしたら、まず私が世界中でいちばん好きなイランの歌、その次に新内を聴きたい」(小泉文夫民族音楽の世界」)


「音楽は国際的でなければならぬものかどうか。国際的なものが非国際的なものより価値が高いかどうかと言うことが問題である。芸術には普遍性特殊性があるが、普遍性の強い芸術が、特殊性の強い芸術よりも価値の高いものである――という論理が成り立つであろうか」(小泉文夫の師・吉川英史のことば)
                  写真:エスキモーの音楽調査→

IRAJ, Golhaye LIVE + Maestro Malek + LYRICS


Golpa - Avaz e Esfahan. Goftam Vali Bavar Nakardi.