yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

湯浅譲二×西村朗「未聴の宇宙、作曲の冒険」(春秋社・2008)。情緒に流されず、理をもっての確かな実験精神と冒険の果敢が享受する未聴の音の世界を語る。音響の創出とは何か?。

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きのう、湯浅譲二の音盤を投稿した。ということもあり、その足で、返却期日も来ている図書館ネット借受の湯浅譲二の対話本を急いで読了したのでとりあげよう。

【湯浅――・・・クリエートするというのは一体何か、ということを随分深く考えていました。
西村――そこですね。
イメージ 2湯浅――ええ。そう創造するというのは今までにない新しいものをつくるということですし、人まねでなく新しいものをつくる・・・。そう辞書にも書いてあるわけですから。そうすると、みんな創造的とかクリエートということを簡単に言うけれども、何が本当に創造的なのかということをそれほど深く考えないで、何となく聞いたような音楽を書いていて、それが創造的というふうになる。そのようにして出来上がった作品でも、なるほどだれかとは違うわけですけど、音楽の性質としてはそれほど違わないような、いわば既聴感というのでしょうか、どこかで聞いたことがある音楽を書いていて、それが創造だと錯覚しているのは本当はおかしい、とずっと思っていたわけです。
西村――既聴感でない音楽、その新しさとはどこから来るものなのでしょう。
湯浅――創造するということの中にどうしても今までにない音楽、しかもそれは単なる新奇なもので、音が新しかったり、あるいはへんてこりんに新奇で、ただ今までになかったから新しいというのではなくて、僕が言っているのは、やっぱり人間を感動させる、人に魅力を感じさせるような世界、あるいは今までに見たことのない世界を見て、ああ、なるほどと思うような世界がつくれなければ、今までにない新しい音楽をつくるということにはならないと思っていて、そういう意味で何とかして今までにない音楽をつくろうとずっと思ってきたんです。】(「未聴の宇宙、作曲の冒険」春秋社・2008)

ま、ごくあたり前の創造家の心構えの吐露と言ってしまえばそうなんだけれど、ただこのことが、実作とともに、その背後に

【湯浅――邦楽器を扱う場合、、もう一つは時間の問題だと思うんです。先ほど、楽器のビルトインされた性質ということを言いましたけれども、そのほかに日本の伝統音楽が西洋の音楽と違うところはどこかといえば、とくに芸術的に昇華されたものは舞の音楽というようなものになってくる。肉体の手や足の動きとは違う。あるいは心臓の鼓動とは異なる。洋楽は数えられる時間の上に成り立っているわけです、いくら変拍子であろうが。ところが、日本の伝統音楽、そういう芸術音楽というのは数えないんですよ。数えない時間と、数えている時間の上で成り立つ音楽というのは本質的に違うわけですね。】

【≪私は、常々作品とは作曲家を支えている世界のすべて、つまりコスモロジー、の反映であると思ってきた。・・・演奏される作品は、それぞれがまさに私のコスモロジーを形成している重要な要素の反映となっている。コスモロジーを形成するものは、まず<生い立ち>そして<経験><学習>であり、自らの生を選択する<生の方向性>と言うべきものであろう。人間は誰しも、人種や文化圏の差をこえて人類に共通する普遍性と、生い立ちの環境、そして固有の文化圏から生まれる個別性を持っている。その意味で、私は日本語を母語とする日本文化圏を背景に育っており、当然、思考の構造としての、伝統的なものを意識している。又同時に、作曲の源につらなる人間の特性を深く考察する時には、言語や宗教、儀礼などの文化発生の時点まで遡行して人間を見る視座を必要とする。≫(湯浅譲二・わたしのコスモロジーより)】

といった根源的な、また広範囲な思索考察がなされての上であることと思うと、あたり前だと聞き逃すわけにはいかない。情緒に流されず、理をもっての確かな実験精神と冒険の果敢が享受する未聴の音の世界。その音楽実践に透徹した実験精神をもって半世紀以上身を投じてきた戦後現代音楽を代表する作曲家湯浅譲二と、およそ作風も違えば二まわり以上もの年の差のある、今をときめく、尾高賞(すぐれた邦人作曲家によるオーケストラ作品を顕彰するために設けられた作曲賞)受賞5回という俊英、西村朗との興味深い対話集。わが国の戦後現代音楽の創生期よりの国際的な認知、評価を得ている作曲家・湯浅譲二。それゆえの、いまや音楽史上の世界の現代音楽作曲家たちと培ってきた交友、その裏話、エピソードも披露されており現代音楽ファンの感興をそそることだろう。


Yuasa- Cosmic Haptic:Aki Takahashi performs