ヨハネス・ブラームス『ドイツ・レクイエム』。渋く鈍い光を放っている重厚な音楽。人間的受苦の魂の響き。
Brahms - Ein Deutsches Requiem, Op. 45: II. Denn alles Fleisch, es ist wie Gras (Part II)
仕事帰りの車中のラジオから、12月になると必ずといっていいくらいあちらこちらで演奏される恒例のベートヴェン第九(合唱付)が案の定流れてきた。N響の定期演奏会のもののようだ。帰宅後、拙ブログへの投稿のためネットで調べたところ以下の内容だった。
【「交響曲 第9番 ニ短調 作品125“合唱つき”」
フリードリヒ・フォン・シラー作詞、ベートーベン作曲
(1時間15分00秒)
(ソプラノ)安藤赴美子
(アルト)手嶋眞佐子
(テノール)福井 敬
(バリトン)福島 明也
(合唱)国立音楽大学
(合唱)東京少年少女合唱隊
(管弦楽)NHK交響楽団
(指揮)クルト・マズア
~NHKホールから中継~
】
自動車のスピーカーでの鑑賞ゆえ、以下話半分で受け取っていただきたいといいつつ、言いますがマズカッタ。寒い語呂あわせで顰蹙買いそうだけれど。こんな演奏が名高い指揮者のものなのか?なんとスケールの小さい、やせた情感薄いベートーベンだこと。オケがあんまり鳴っていない。N響なのに。演奏者の分からぬまま車中で聴いていたとき、てっきり左程の力量の持ち合わせていない指揮とオケのものかと思っていた。独唱はネイティブではなく日本人だとすぐわかったけれど(発音云々ではなく、・・・わかるでしょう?)、指揮がクルト・マズア(Kurt Masur, 1927 - )であったことが演奏終了後アナウンスされて、うん?本当かよだった。しょうじき言って、この程度なら日本のトップレベルの指揮者のほうが、オケがN響であるならもっといい音を鳴らすぞと思ったものだった。ま、ライヴゆえ、そのときの出来不出来もあるだろうし、また八十を過ぎた高齢ということもあってのことかも知れないが・・・。会場の人たちも何とはなしにそう印象していたのか、拍手はあれど歓呼ブラボーの渦ではなかった。
フリードリヒ・フォン・シラー作詞、ベートーベン作曲
(1時間15分00秒)
(ソプラノ)安藤赴美子
(アルト)手嶋眞佐子
(テノール)福井 敬
(バリトン)福島 明也
(合唱)国立音楽大学
(合唱)東京少年少女合唱隊
(管弦楽)NHK交響楽団
(指揮)クルト・マズア
~NHKホールから中継~
】
自動車のスピーカーでの鑑賞ゆえ、以下話半分で受け取っていただきたいといいつつ、言いますがマズカッタ。寒い語呂あわせで顰蹙買いそうだけれど。こんな演奏が名高い指揮者のものなのか?なんとスケールの小さい、やせた情感薄いベートーベンだこと。オケがあんまり鳴っていない。N響なのに。演奏者の分からぬまま車中で聴いていたとき、てっきり左程の力量の持ち合わせていない指揮とオケのものかと思っていた。独唱はネイティブではなく日本人だとすぐわかったけれど(発音云々ではなく、・・・わかるでしょう?)、指揮がクルト・マズア(Kurt Masur, 1927 - )であったことが演奏終了後アナウンスされて、うん?本当かよだった。しょうじき言って、この程度なら日本のトップレベルの指揮者のほうが、オケがN響であるならもっといい音を鳴らすぞと思ったものだった。ま、ライヴゆえ、そのときの出来不出来もあるだろうし、また八十を過ぎた高齢ということもあってのことかも知れないが・・・。会場の人たちも何とはなしにそう印象していたのか、拍手はあれど歓呼ブラボーの渦ではなかった。
(※12・23追記:実際にこの22日の放送分のライヴを聴かれた方の興味深い記事がありました http://eirakukan.seesaa.net/article/136356288.html 英楽館。記事中で御指摘の事態には気がつかなかったです。自動車運転中ゆえか?)
と、マクラが長すぎた。本題は、きのう投稿したフォーレの「レクイエム」といっしょに図書館で借り受けてきたブラームスの『ドイツ・レクイエム』だった。この作品がブラームスの傑作であるかどうかは私にはよく分からないが。以前≪ヨハネス・ブラームス『ドイツ・レクイエム』。これがレクイエムか?典礼に則らない魂の響き。渋さと重厚、ジワリと感動せりあがってくる『<人間の>・レクイエム』。≫として印象記したけように、まさに≪渋さと重厚≫。複層する、厚みのある音と響きで構成展開してゆく魅力。というものの、渋すぎると言ってもいいのかもしれない。それゆえ、はたして傑作と喧伝されているほどに聴かれているのだろうかと思わないでもない。『ドイツ・レクイエム』への鑑賞の記は先ほどの、サイモン・ラトル盤での投稿で紡いだ言葉以上のものは今のところないので、歌詞としてブラームスがラテン語ではなくドイツ語訳(マルティン・ルターの訳)の聖書から、自ら選んでテキストとした聖書の言葉を再引用してこの稿擱くこととしよう。たぶんこのテキストとしての聖書の言葉、その深甚な教えも、この≪人間的受苦の魂の響き≫『ドイツ・レクイエム』の≪渋く鈍い光を放っている音楽≫のもたらす感動の淵源でもあるのだろう。
第1曲 悲しむ人々は、幸いである
悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められるであろう。(マタイ5・4)
涙をもって種蒔く者は
喜びの歌をもって刈り取る。
種を携え、
涙を流して出て行く者は
束を携え
喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(詩編126・5-6)
第2曲 人は皆、草のようで
人は皆、草のごとく
その栄華はみな、
草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。(ペトロ1:1・24)
だから兄弟たちよ、主の来臨の時まで耐え忍びなさい。
見よ、農夫は地の尊い実りを、
前の雨と後の雨とがあるまで、
耐え忍んで待っている (ヤコブ5・7)
人は皆、草のごとく
その栄華はみな、
草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る。(ペトロ1:1・24-25)
主に贖(あがな)われた者は
帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びを得、
悲しみと嘆きは逃げ去る。(イザヤ35・10)
第3曲 教えて下さい、主よ
教えてください、主よ、
私の行く末を
私の生涯はどれほどのものか
いかにわたしがはかないものか、悟るように。
ご覧下さい。与えられたこの生涯は、
僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生も 無に等しいのです。
ああ、人は確かに立っているようでも、
すべて空しいもの。
ああ、人はただ影のように移ろうもの。
ああ、人は空しくあくせくし
だれの手に渡るとも知らずに
積み上げる。
主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。
私はあなたを待ちます。(詩編39・5-7)
神に従う人の魂は神の手で守られ
もはやいかなる責め苦も受けることはない。(知恵3・1)
・・・・・
第7曲 主に結ばれて死ぬ人々は幸いである
「…『今から後、主に結ばれて
死ぬ人は幸いである』と。」
"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、
安らぎを得る。
その行いが報われるからである。」(黙示録14・13)