ヨハン・セバスチァン・バッハ『ミサ曲 ロ短調 BWV 232』。キリスト者でなくとも信仰の喜悦が湧き起こってくるのだ。何なのだこのバッハ音楽の普遍性は。
昨日、端唄・小唄・都々逸で今日、バッハ。私の頭はどうなっているのでしょう。まったくスキゾです。要するに支離滅裂ということなのでしよう。つい先日には「ヨハネ受難曲」を、そしてその前は≪ヨハン・セバスチァン・バッハ『マタイ受難曲』LP4枚組み。音楽史上の奇跡、鳥肌立つ感動ものの究極の一枚。≫とタイトルしてマタイ受難曲を投稿した。そして今日とうとう?『ミサ曲 ロ短調 BWV 232』に辿りついた。ネット図書館で借り受けたものだけれど。ああ~この喜悦。先日のベートーヴェンの「ミサソレニムス」もそうだったけれど, サンクトゥスSANCTUS、 ベネディクトゥスBENEDICTUS、そしてアニュス・デイAGNUS DEIと後半になるにつれキリスト者でなくとも信仰の喜悦が湧き起こってくるのだ。何なのだこのバッハ音楽の普遍性は。
ホザナ、ホザナ、ホザナ主の御名を
ホザナ、ホザナ、ホザナ主の御名を
ほめたたえよ、心満たされ
賛美に満ちあふれ、ホザナ主の御名を
ホザナ、ホザナ、ホザナ主の御名を
ほめたたえよ、心満たされ
賛美に満ちあふれ、ホザナ主の御名を
名曲なのにネット図書館で所蔵されていたのはNAXOS廉価盤の1セット(2枚組み)のみ。ケルン室内管弦楽団、指揮ヘルムート・ミュラー=ブリュール Helmut Muller-Bruhlのもの。演奏は良いんだけれど、ソリストのパフォーマンスがイマイチ。私の好みの問題かもしれませんが・・・。