yuki-midorinomoriの日記

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ルイ・アンドリーセン『De Tijd(=TIME・時間) (女声とアンサンブルのための)』(1979 - 1981)。余韻と静謐、深甚の趣。永遠の現在。

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Louis Andriessen - Haags Hakkûh - The Hague Hacking - Part 1/2

           
           残念ながら投稿の『De Tijd (Time)』の動画音源はありません。

Louis Andriessen
イメージ 2マイナーで数も限られているということもあるけれど、ネット図書館で所蔵されている現代音楽のおもな物は借り受け鑑賞してきたので、今日取り上げるオランダの現代音楽作曲家ルイ・アンドリーセン(Louis Andriessen, 1939 - )の『De Tijd(=TIME・時間) (女声とアンサンブルのための)』(1979 - 1981)にヒットしたのは、その意外性においてささやかな喜びだった。現代音楽の検索語彙ではフォローされていなかったのに、ひよんなことから出くわしたのだった。たまには未聴のシェーンベルクも聴いてみなくてはと<シェーンベルク>で検索していて、このアンドリーセンのアルバムにヒットしたのだ。理由はこの作品の演奏団体が「シェーンベルク・アンサンブル」であったことからなのだった。分類が現代音楽ではなくシェーンベルクに腑分けされていたのだった。ま、そんなことはともかく、これは聴きものだった。この『De Tijd(=TIME・時間)』とタイトルされた曲【≪時間≫は、古代末期の神学者で中世思想に決定的な影響を与えた聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354 - 430)の著書『告白』のなかから「時間」をめぐるテキストにもとづいて作曲された】(解説・川西真理)のだそうだ。「誰も私に質問しない時には、私は時間について知っているが、誰かに質問されて答えようとすると、途端に時間について分からなくなる」との言葉で有名なアウグスティヌスの時間論の音楽化といえばいいのだろうか。
曲の主調は持続音。そこにさまざまな打楽器が余韻深く、時にするどく打ち込まれ、引き伸ばされた女声コーラスのテキスト唱和ともども深甚の趣を醸す。ウン?なんだかモートン・フェルドマン的瞑想、静謐の世界のようでもある。停滞した現在の永遠性。いや、現在という永遠性、その示現とでもいえばいいのだろうか。

【だれが、このような人々の心をとらえておしとどめ、しばらく落ちついて恒存する永遠の輝きを、ほんのすこし、かいまみせることができるでしょうか。けっしてとどまることのない時間とそれをくらべあわせ、とうていくらべものにならないことを悟らせることができるでしょうか。
 時間を長びかせるためには、同時に延びられない多くの過ぎ去る動きをつなぎあわせなければならないが、永遠においては過ぎ去るものはなにもなく、全体が現在にある、これに反し、いかなる時間も全体が現在にあることはない。すべて過ぎ去ったものは来るべきものに追い払われ、すべて来るべきものは過ぎ去ったものにひきつづいてくるが、すべての過ぎ去ったものと来るべきものとは、常に現在であるものによって創造され、そこから流れだす――。
 こういうことを、だれが彼らに悟らせることができるでしょうか。だれが、人間の心をとらえて落ち着かせ、とどまりたもう永遠が、それ自身未来でもなく過去でもないのに、しかも未来の時と過去の時とを規定したもうということを、悟らせることができるでしょうか。
 私の手はそれができるでしょうか。私の「口舌」という手は、語ることばを用いて、そんな偉大な仕事をなしとげることができるでしょうか。】
アウグスティヌス『告白』第11巻-第11章、上記より引用)


【いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。】
    (道元正法眼蔵-有時」)

※丈六金身=仏陀の姿を表した言葉であり、丈六とは仏陀の身長が一丈六尺であること、金身とは仏陀の皮膚が金色であることを言う。ただ「丈六」とだけ示されることもある。





ルイ・アンドリーセン Louis Andriessen『De Tijd (Time) For Large Ensemble』(1979 - 1981)