ハインツ・ホリガー『現代オーボエの領域』(1974)。とりわけ尹伊桑(ユン・イサン)のオーボエには民俗スピリッツのホジョクが鳴り響く。
ネット図書館でも、我が偏頗な好みの食指を動かすようなアルバムも数限られてきている。現代音楽というマイナーな領域のものであればこそ所蔵数も知れており、致し方ないことではあるのだが・・・。もちろんこだわりなく聴こうと思えば古今のクラシック他いくらでも選択余地は残されているのだけれど。さて、きょうは、自身も作曲もし(これがとびっきりポストモダンな脱音楽?的な作品を発表してもいるアヴァンギャルド作曲家といえる)、かつそのヴィルトージティで名を馳せるオーボエ演奏家でもあるハインツ・ホリガー(Heinz Holliger, 1939 - )のその超絶技巧を駆使しての現代の音色、響きの開発にいそしむ諸作品のリアライズを集めたオムニバスアルバム『現代オーボエの領域』。まさしく、アルバム宣伝文句にあるごとく≪高度な技術と多彩な音色を駆使しオーボエの未知の領域を切り拓いた超絶演奏集≫だ。つごう5人の作曲家による6作品が収録されているこのアルバムへの、私のネット図書館で借り受けての鑑賞の眼目は、韓国の作曲家であり、我が日本の作曲家へも多大の影響を与えた尹伊桑(ユン・イサン、1917 - 1995)の作品であった。直近では年初頭、≪ユン・イサンの芸術 Vol.4。「ヴァイオリン協奏曲 第1番」(1981)。(分断の民族的)厳しさが、苦しみが、呻きが、絶望が、撓るがごときヴァイオリンとオーケストレーションで奏でられるのだ。≫とタイトルして投稿している。いささか短絡的の謗りを受けるやも知れないが、この作曲家には≪(分断の民族的)厳しさが、苦しみが、呻きが、絶望が、・・・≫との音楽外的なと言われかねない思想上のことば、思い入れから抜けられないのだ。≪きのうのヴェトナム民俗音楽『ニャク・レー』≫でも甲高く鳴り響いていたチャルメラようの管楽器の響きが、朝鮮半島にも<ホジョク、テピョンソ、ナルラリ、スェナプとも呼ばれるダブル・リードの木管楽器>として民俗スピリットを強烈に放鳴する歴史を持ち、それがきょうの西洋楽器<オーボエ>とクロスして、先の≪(分断の民族的)厳しさが、苦しみが、呻きが、絶望が、・・・≫という音楽外の思い入れともどもわが耳を突きぬけ印象深く太極を響きわたらせるのだった。
「ヨーロッパの音楽ではようやく音列が市民権を獲得し、そこでは単一の音は比較的抽象的な存在になりうる。一方、われわれの音楽においては、すでに音はそれ自体で充足している。われわれの(東洋の)音たちは、前者が製図用鉛筆でひかれた線であるのに対して、鉛筆のひとタッチにたとえることが出来よう。音はその出はじめから消えてゆくまで、それぞれ、個々の音にかんしてその変化は制御される。音は装飾音、前打ち音、うなり、グリッサンドそして強弱に変化を与えられ、そしてなかんずく、各々の音の自然な振動は、造形の手段という意識で用いられるのだ。・・・・この作品は〈音楽〉における〈音〉の機能に関して、ヨーロッパにおけるそれと東洋におけるそれの相違を知らせてくれる。〈音〉が問題なのか音の〈列〉が問題なのか。ここには基本的な問題がある。」(ユン・イサン尹伊桑、解説冊子より)
(1)ヴェレッシュ:パッサカリア・コンチェルタンテ(1961)
~オーボエと12の弦楽器のための
(2)ペンデレツキ:カプリチョ(1965)
~オーボエと11の弦楽器のための
(3)イサン・ユン:ピリ(1971)~オーボエのための
(4)デニソフ:ソロ(1971)~オーボエのための
(5)ホリガー:多重音のためのスタディ(1971)~オーボエのための
(6)ホリガー:リート(1971)~エレクトリック・フルートのための
~オーボエと12の弦楽器のための
(2)ペンデレツキ:カプリチョ(1965)
~オーボエと11の弦楽器のための
(3)イサン・ユン:ピリ(1971)~オーボエのための
(4)デニソフ:ソロ(1971)~オーボエのための
(5)ホリガー:多重音のためのスタディ(1971)~オーボエのための
(6)ホリガー:リート(1971)~エレクトリック・フルートのための