yuki-midorinomoriの日記

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モーツァルト『ヴァイオリン協奏曲全集』(CD2枚組)。その二。そは、アダージョ。アンダンテ。無窮の自然に祈り涙する、死すべき存在、死への限界可能存在モーツァルト。

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莫札特第三小提琴協奏曲 Mozart Violin Concerto No.3, K216 (2/3)

             

ほぼ3年前に≪アンネ=ゾフィ・ムターの『モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲全集』(2枚組み)。モーツァルトという天才に成熟などと言う言葉があるのだろうか。≫と投稿しているのだけれど、最近モーツァルトアダージョ Adagioにはまり込んでいるせいなのかどうか、またまたそのアンネ=ゾフィ・ムターの投稿済みの同じアルバムを町の図書館で借りて鑑賞した。2回目。先の投稿以上に言うことばなど弩シロウトの私には紡ぎ出せないのだけれど・・・。

あらためてその≪透明な天上的な響き≫、哀しいまでの澄明なココロの響きに聴き入った。

「自分がいま現にここにいるという名状しがたい状態、いわば、現存する!という一つの生の音調に、裸の姿で、率直に、また単純に、接近したものはないと思う。・・・彼の詩は、いわば、その<現存>と、その<ここにはない何か>を思うことの中間にある。というより、この中間、生きているということが単純に深く感ぜられる、極度に人間的な生の一領域を歌ったものだ。」(秋山駿・「小林秀雄中原中也」レグルス文庫)

これは≪私のは「悲しみ呆け」だと思ふのでございます。≫の詩人、中原中也を語ったものだけれど、詩人のことばを作曲家の音に置き換えれば相同の芸術境域として了解できるのではないだろうか。


<蛙 声>

 天は地を蓋(おほ)ひ、
 そして、地には偶々(たまたま)池がある。
 その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
 ――あれは、何を鳴いてるのであらう?

 その声は、空より来り、
 空へと去るのであらう?
 ・・・
              (中原中也在りし日の歌」)


そは、アダージョ。アンダンテ。無窮の自然に佇み祈り涙する、死すべき存在、死への限界可能存在モーツァルトと括って擱こうか。

【このヴァイオリニストのムターはいわゆる天才少女で音楽人生を華やかに歩んできた人のようだ。13才でベルリンフィルカラヤンと共演ということからもその抜きんでていることを証してもいるのだろう。≪モーツァルトの曲は俳句のように多くの意味が込められているが、文体は簡潔なように、モーツァルトにも行間を読む能力が求められる。モーツァルトの音楽は静寂に始まり、静寂に消えてゆく。美と静寂を合わせ持つ音楽がモーツァルトだ」と語る≫(WIKIPEDIA)アンネ・ゾフィー・ムターのモーツァルト。5曲のヴァイオリン協奏曲が10代後半以降の2年間に集中して作曲されているのも驚きであるけれど、件の三番の第2楽章アダージョといい、1779年23才の時に作曲されたとされている『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 k364』の第2楽章の哀しさに満ちた美しいアンダンテなどを聴くと尋常ではない精神のありどころを思わざるを得ない。天才に成熟などと言う言葉があるのだろうかと思ってしまうほどである。】(上記拙投稿記事より)






モーツァルト『ヴァイオリン協奏曲全集』(CD2枚組)

ディスク:1
1. ヴァイオリン協奏曲第2番ニ長調K.211
2. ヴァイオリン協奏曲第1番変ロ長調K.207
3. ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K.219「トルコ風」

ディスク:2
1. ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調K.218
2. ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K.216
3. 協奏交響曲変ホ長調K.364



Mozart: Sinfonia concertante, Mvmt. 2a - Vengerov, Power