yuki-midorinomoriの日記

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色即是空。『和英対訳・仏教聖典(THE TEACHING OF BUDDHA)』。仏陀の教え・・・。

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すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。

帰宅後、夕刊新聞は湯ぶねに浸かりながら読む。当然、新聞は水に濡れてヘナヘナゴワゴワ、いうまでもなく家族からヒンシュクをかうことになる。黙考思案に最適の時と場所に「枕上 ( ちんじょう ) 鞍上 ( あんじょう ) 厠上 ( しじょう )」と言う言葉がありますが、凡百の身には、朝のトイレの用足し中、沈思黙考、思索とはいかず、ヒゲを剃りながら、棚に置いてある図書館で借りてきた週刊誌をパラパラと読むでもなく目を泳がせる。ところが先日、なにげなくその棚にホコリ被るほどに前々から置いてあった『和英対訳・仏教聖典(THE TEACHING OF BUDDHA)』を手にとり、読んだというより、偶々見開いたページの文字を追った。(この本は仏教系女子大の学生たちへの記念贈呈本のようだけれど、どういった経緯か、わが町の図書館蔵書の廃棄リサイクル本として放出されていたものを貰ってきた書物だった)

見開いたページには以下のコトバが、いや仏陀の教えがあった。


【すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。

 仏は、「すべてのものは有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、
ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずというのである。

 ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因となる.もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。

まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。すべては陽炎のようなものである。

無量の因縁によって現われたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見という誤った見方である。また、まったくなくなると信ずるのは、断見という誤った見方である。

 この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。すべてのものは、もともとこの執着の姿を離れている。

 ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののように永遠不変ではない。うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようではあるが、しかも、また、同時に、そのままで真実である。うつり変わるままに永遠不変なのである。

 川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては川とは見えない。だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。

 これと同じように、すべてのものは、みな「ある」といえず、「ない」ともいえない、幻のようなものである。

 しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。】


断じてことばの遊びではない、あたりまえですが・・・。


【・・・それにしても、宗教という宗教のすべてが“お手々つないで”であるはずはないし、宗教の起源にこんな発想がやどっていたともおもえない。ブッダ大慈悲の解釈が社会福祉めいた“天国福祉”であったともおもえない。たとえば、大乗経典の原型中の原型ともいうべき「般若経」の空観や中観からどうして“お手々つないで”が派生してくるのだろう?】(松岡正剛


「滅することなく、生じることなく、断絶でなく、永遠でなく、単一でもなく、種々でもなく、来ることなく、去ることもないような縁起を説いた、最もすぐれた説法者である、かのブッダに、礼拝する」
               (ナーガルジュナ・龍樹 150―250頃)