yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『マルティヌー,ツィンマーマン&R.シュトラウス:オーボエ協奏曲集』。言うまでもなく、R.シュトラウスが圧倒的。

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Carlo Romano with R. Strauss Concerto in D major for Oboe 2nd mvt. Andante

              
              投稿音源のものではありません。

ここ当分、東北震災関連のことどもをブログでは言葉にしたくない。未曾有の津波を引きがねとする原発災害をめぐっての、対応当事者たちへの無能呼ばわりの喧しさ。何なのかこれは。苛立ちのなせるところとは思うものの・・・。

≪――内田樹のホームページ(3/13)記事より――
・・・こういう状況のときに「否定的なことば」を発することは抑制すべきだと思う。
いまはオールジャパンで被災者の救援と、被災地の復興にあたるべきときであり、他責的なことばづかいで行政や当局者の責任を問い詰めたり、無能力をなじったりすることは控えるべきだ。彼らは今もこれからもその公的立場上、救援活動と復興活動の主体とならなければならない。不眠不休の激務にあたっている人々は物心両面での支援を必要としている。モラルサポートを惜しむべきときではない。・・・≫(3/19投稿記事より)

≪今は評論家、マスメディア等々の(したり顔、まえまえから分かっていた風の)傲慢の非難指弾の言葉より、大自然の驚異、災害、失敗の事実から学ぶ姿勢こそが大事・・・と思われる。≫(4/1投稿記事より)

≪今、こうしている間も福島第一原子力発電所で決死にして不眠不休の作業が行われているであろうと思うと心が痛む。既にテレビなどで東電或いは原子力発電所推進派の人達の責任を問う向きがあるが、まだ事の責任を云々する時期ではない。今は現場で行われているであろう「必死」の努力を国民全体で支え、復輿の最大の妨げであるこの原発事故をすみやかに収め、日本国民のみならず近隣諸国の人々の心を一定の安心まで導くことが第一だからだ。(さだまさし・「僕らが問われていること」、日経夕刊より)≫(昨日4/8投稿記事より)

こうした考えがわたしの基本的スタンスと言っておこうかと思う。ことの推移は、我が拙い知力ながら当然真摯に追っていき、学んでいきたいと思うけれど。



さて拙音楽ブログの本題。

ネット図書館で借り受けた『マルティヌー,ツィンマーマン&R.シュトラウスオーボエ協奏曲集』。ベルント・アロイス・ツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann, 1918-1970)の作品が収録されていたということでの選択だった。けれど、収録曲は新古典派時代の作風のもので、さほどの感興をもたせるものではなかった。(新古典派の作風にあまり興味がもてないということもあるけれど)もちろんマルティヌー(Bohuslav Martinů、1890 - 1959)も同様。ということで、なんといってもリヒャルト・シュトラウスのすごさ、そのダントツの天才性を再々度知ることとなったアルバム鑑賞だった。
じつは、1年半ほどまえに、シュトラウスのこの傑作「オーボエ協奏曲」を投稿している。以下のことばを綴っていた。再掲しておこう。

【長命(1864 - 1949)だったその作曲家最晩年の1945年(終戦後)に作曲されたのが、このオーボエ協奏曲。見事なまでのオーケストレーションオーボエソロの流麗さと品格。たしかに美しい作品だ。作曲年代からして、これを現代音楽とすべきなのか?(シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンなどは躊躇しないのだけれど)その曲風からは到底そのようには扱えないものの・・・、しかし斯くなる見事なまでの、追随許さぬロマンの微香に包まれた古典的作品を前にしては臆すること暫しといったところだろうか。≪すでにシュトックハウゼンブーレーズ、ノーノ、ケージといった前衛作曲家達が登場し始めていたこの時代においては、シュトラウスの作風は、あまりに古色蒼然とした時代遅れであった。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。≫(WIKI)とのことだけれど。なんのなんの、何をおっしゃいますやら・・・、カップリングの モーツァルトオーボエ協奏曲 ハ長調 K.314/285d」と並べ聴いてもそのすばらしさに、現代のモーツアルトなる呼称もあながち大袈裟とも思えず、むしろその流麗な美しさに感服するぐらいだった。「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」との言葉と裏腹な自存自立した美学世界のこの見事なまでの達成境地。死の前年1948年の作『四つの最後の歌』といい、この「オーボエ協奏曲」といい・・・。)】

あらためて、まったくすばらしい曲だ・・・。






マルティヌー,ツィンマーマン&R.シュトラウスオーボエ協奏曲集』
MARTINU, ZIMMERMANN & R.STRAUSS: OBOE CONCERTOS

[指揮]マリス・ヤンソンス
[演奏]バイエルン放送交響楽団
(オーボエ)ステファン・シリ


1. ボフスラフ・マルチヌー:オーボエと小管弦楽のための協奏曲H.353(CONCERTO FOR OBOE AND SMALL ORCHESTRA H.353)

2. B.A.ツィンマーマン:オーボエと小管弦楽のための協奏曲(CONCERTO FOR OBOE AND SMALL ORCHESTRA)
3. リヒャルト・シュトラウスオーボエと小管弦楽のための協奏曲ニ長調AV.144(CONCERTO FOR OBOE AND SMALL ORCHESTRA IN D MAJOR AV.144)



リヒャルト・シュトラウス関連投稿記事――


http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/62282982.html リヒャルト・シュトラウス管弦楽作品集』 。20代半ばの「死と浄化」と、晩年81才の時の作品「メタモルフォーゼン」・・・。何でこんなに素晴らしいオーケストレーションで音がなるの?同じつぶやきの繰り返し


http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/50491856.html 流麗な美に彩られた音達のなんと情感豊かな表情であることか。哀しみに満ちたリヒャルト・シュトラウス『変容(メタモルフォーゼン)Metamorphosen』。


http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/58547783.html リヒャルト・シュトラウス『ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 作品18』。ヴァイオリンはピアノを包み、高みへ向かい、ピアノはまたヴァイオリンと共に己の歌を存分に歌い上げる。双方の絡み、展開に法悦酔いしれる。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60453671.html リヒャルト・シュトラウス交響詩英雄の生涯 Ein Heldenleben Op.40』。「もうかないません」が幾度となく口をついて出てくる。この圧倒的なオーケストレーションにただ自失放心するのみだ

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60676751.html リヒャルト・シュトラウス『最後の四つの歌』。最初の2曲を聴く。けれどもやはり・・・。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60688299.html モーツァルト、R・シュトラウスオーボエ協奏曲集』。「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」との言葉と裏腹な自存自立した美学世界のこの見事なまでの達成境地。



http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/61662784.html リヒャルト・シュトラウスヒンデミット『ホルン協奏曲』。老練円熟の、肩の力の抜けた作曲の成果で愉しませてくれるシュトラウス。かっちりした古典的形式感と格調、重厚さのヒンデミット

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/61945219.html リヒャルト・シュトラウスツァラトゥストラはかく語りき 作品30、ほか』。楽聖ベートーヴェンの第五「運命」のそれに劣らず人口に膾炙してキャッチャーなオープニング。なんと1896年の作曲。


Richard Strauss - 5 Pieces for Piano Op.3 No.1