yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

バッハ『無伴奏チェロ組曲 全曲』。心穏やかに、心鎮めるべく今晩はセバスチャン・バッハの無伴奏チェロ。

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Bach - Cello Suite No.6 ii-Allemande

               

その時々に政策を選択する政治家や官僚は、どのような政策が実現可能なのか、選択の幅がどれほど広いのか、知ることができない。何が可能で何が不可能なのかがわからないまま、前も後ろもわからない霧に包まれたなかで、人々の生活を左右する政策選択を強いられるのである。そのなかには誤った状況判断によって実施された政策もあるだろう。太平洋戦争でいえば、その時には避けられないと考えられた戦争も、後から見れば避けることのできた、そして避けるべき戦争であったものに映るようになった。時聞が経って初めて、その時々に妥当と思われた決定や行動に潜んでいた誤りが明らかとなるのである。

学者の本業は、すでに終わった事件や決定を跡づけることだ。霧が晴れ、資料も揃い、何が可能で何が可能ではないかがはっきりした時点で議論するのだから、頭が良さそうにも見えるだろう。だが、その頭の良さは役立たずと表裏の関係にある。現場で選択を迫られたときに学者が適切な判断を下すことができるとは考えにくい。

 時事評論は、後出しジャンケンの特権を捨て、実務家と同じ「現在」における選択を議論する空間だ。「現在」の言論を支配する共通了解、社会通念、あるいは偏見に自分もとらわれたままで議論する危険は免れない。実務家とともに霧のなかのピエロを演じることになるだろう。実際、同時代に書かれながら後の時代の検証に堪える時事評論は、ごく少ないのである。

 試みに三〇年前の総合雑誌を開き、そこで行われる議論を見れば良い。その議論のどれほど多くが冷戦という枠組みによって縛られていることか。さらにいえば、その時代を見つめるよりも、ひと時代前の観念を当てはめて解釈を気取っている文章の方が多い。・・・

 それでは、過去を振り返るのではなく、現在に身を置いて、その場での選択を語ることはできるのか。政策提言などとたいそうな物言いをする前に、そもそも霧のなかで選択肢を考えることはいったい可能なのだろうか。・・・
      (4/20朝日夕刊「時事小言・霧の中で選択肢探る」藤原帰一)

最近はテレビ観るのも、新聞読むのも、信じ難い現実を前に我が拙い想念がゆすぶられ落ち着かずシンドイ。気分穏やかではない。死者、行方不明者含めておよそ3万人という未曾有の悲劇的事態(ひとの生活の痕跡もなく瓦礫の山と化したあの悲しいまでの、静まりかえった荒涼とした風景)を何と思っているのかといいたくなるほどの浮薄な喧しさだ。初動、対応のお粗末?そんなこと今言ってなにになるんだろう。混乱と困難の極み、なすすべなかったというのが本当のところだろう。想定の外の連鎖で、すべてがうまくいかなくて斯くなる事態(死者、行方不明者含めておよそ3万人!)を呼ぶにいたったことの痛恨を、自然の驚異をまえにした人為の限界、卑小を、先ずもって思うべきではないのか。すべてはそこからだ・・・。果てしが無いと言っていいほど、生かされた者には学ぶべきこと、課題が多い。でなければ被災死者は浮かばれない。


心穏やかに、心鎮めるべくセバスチャン・バッハの『無伴奏チェロ組曲 全曲』を聴く。図書館で借りては幾度も聴いているマイスキーのバッハ。言われているらしい主情的なバッハ解釈なのかどうか、私にはわからない。はたして本当のバッハなんてのがあるのか?すでに、バッハ無伴奏チェロ組曲者は以下2稿投稿しているのだけれど・・・。沈思黙考にはバッハの無伴奏チェロだ。


http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/61393781.html 『ヤーノシュ・シュタルケルの芸術』。バッハ無伴奏チェロ組曲全6曲とゾルターン・コダーイ無伴奏チェロ曲。

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60990621.html J・S・バッハ『無伴奏チェロ組曲、第2番&第5番』。弦ひとつのシンプルな曲なのにどうしてこうも胸の奥底まで揺さぶる感動をもたらすのだろう。崇高と厳粛。その音楽の深奥な至高性を体験することだろう




バッハ『無伴奏チェロ組曲 全曲』







Bach - Cello Suite No.6 iv-Sarabande