yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

昨日につづき『伝統音楽のすすめ~名人演奏と共に~ 声明・能楽・箏曲・地歌』(CD2枚組)。わたしには異端芸能としか思えない「能」の音の世界。

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能 熊野(ゆや)

               

能楽 熊野(ゆや)(村雨留)

『熊野』の前半、病床にある母親を気にしながら、宗盛の供をして都
大路を花盛りの清水寺までたどる『道行き』の部分です。(同梱解説より)


わらは御酌に参り候べし。
いかに熊野、一さし舞い候え。深き情を人や知る。(中ノ舞)
のうのう俄に村雨のして花の散り候は如何に。
げにげに村雨の降り来って花を散らし候よ。
あら心なの村雨やな春雨の、
降るは涙か、降るは涙か桜花、散るを惜しまぬ人やある。(イロエ)
由ありげなる言葉の種取り上げ見れば、いかにせん都の春も
惜しけれど、
イメージ 2なれし東の花や散るらん。げに哀なり道理なり。
思えば早々暇とらするなり、とくとく東に下るべし。
なに御暇と候や。なかなかの事、とくとく下り給ふべし。
あら嬉しや尊やな、是観音の御利生(りしょう)なり。是までなりや嬉しやな。是までなりや嬉しやな。
かくて都に御供せば、またもや御意の変るべき、只このままに御暇と、木綿附(いうつけ)の鳥が鳴く、東路さして行く道の、やがて休らう逢坂の、関の戸ざしも心して、明け行く跡の山見えて、花を見すつるかりがねの、それは越路我は又、東に帰る名残かな。東に帰る名残かな



一度も能を観たこともないのに・・・。

けれど、音で聴く限りの「能」はなんか変。これって何なの?がつねについてまわるのだ。たぶん、だれしもがココロの片隅で、どこに由来があるのかと訝しいいことこのうえない謡の発声(演劇的というにも、まことに不自然な発声)、また鼓などの奏する打器楽音と笛、掛け声?のつくりだす緊張感湛える世界、それに、象徴的な舞の所作などを観るにつけ・・・。何ナノこれ?
わたしには、日本の伝統(芸術)ウンヌンというより、異端としか思えないのだけれど。まったく了解の外にある芸能というほかない。
伝統的な我が芸能の淵源であるだろうと推測、納得できる古来よりの祝詞仏教声明(読誦)雅楽朗詠などと関係ありそうでなさそうで・・・。だけどなんとも納得できない、了解できないこの能と言う芸能。こと(楽)音に限っていうかぎりでは、異端というほかない。伝統の連続性、脈絡の毛ほどもいっかな感じられない・・・。この音の世界は何なのだろう。
関連本や説明を覗いてもいっこうに釈然としない。我が日本(ココロ)を表徴する芸能といわれても・・・。わたしには異端芸能としか思えないのだけれど。

いまだに。これはなんなのだ?。
すごくスピリチュアルで魅せる(芸能)世界ではあるのだけれど。
西欧世界から見てもジャパネスク以上に異様異端なのだろうか。いや、それ以上にわたしたち日本人にとっても異端といえないだろうか。不思議の魅力。日本人から見てもエキゾチックだ。

子供らが遊び戯れて発する「オ・バ・ケ・ヤ・ぞ~」のコワイロに、どこか似ているように思うのはわたしだけ?。あんがい「能」のあの演劇的な声、発声の心的原基はこんなとこにあるのかも。

アチラの世界の声、結界の響き。


ところで、ネットであれやこれやと覗いているうちに以下の興味深い、こころのうちの告白、感想を綴った文章があったので引用させていただこう。
生物学者として知られた、今は泉下にある日高 敏隆の<能>所感。


【  能はなぜ退屈か?
                        滋賀県立大学学長 日高 敏隆


ぼくにとって、能はちっともわからなくて退屈なものであった。
  能はなぜ退屈なのか、ぼくはいろいろ考えてみた。二十年ほど前にぼくが達した結論は、能はいわば動物の行動と同じところがあり、ちょっと見ただけでは何がなんだかわからないが、一つ一つの動作の意味を知れば、流れが分かるはずである、ということであった。
  能を動物の行動と比較されて、能の関係者はいささかごきげんが悪かったが、「でも、そうかもしれません。能の動きはシンボリック(象徴的)ですからね」といってくれた。
  ところがその後、京大の研修生(研究生)であった桃木暁子さんと一緒にさらに調べていくと、この結論は全くまちがっていることがわかってきた。
  まず、能の舞いはぜんぜんシンボリックではないのである。歩く、立上る、見まわす、指さす、水に跳びこむなどという動作を全てリアルにやっている。ただ、その動きがごく小さいので、ちょっと見ただけでは何の動作かわからないのである。
  ところが、それを謡がすべて説明しているのだ。たとえばぼくらが主に研究した『海女』という曲では、海女の亡霊が海に跳びこむ場面がある。シテは小さく二、三歩前にでて、ひざをほんの少しかがめる。これだけでは全く何をしているのかわからない。けれどそのとき謡は「海に跳びいりたり」とうたっているのだ。
  残念ながら今の能では、どういうわけか謡はおそろしく変にゆがめた発声でうたわれるので、謡をやったことない一般の人には謡の言葉が聞きとれない。だから何がなんだかわからなくなってしまう。「あらすじ」を渡され読んでいても、そのどのへんをやっているのかすらわからない。
  このようなことは中森昌三さんの著書の中にも書いてあることに、ぼくらはやがて気がついた。けれどじつは、もっと昔、能の開祖ともされる世阿弥が、すでにあの有名な『風姿花伝』の中で、「能は謡、舞いはもの真似」という意味のことを述べているのである。能について今一般的にいわれているのは、「能は舞い、能はシンボリック」ということである。どうしてそんなことになってしまったのか、ぼくは不思議でならない。】



追記(2/21):「能であれバレエであれ、すぐれた舞踊は古今東西みな冥界下降譚の構造をもつ。・・・いずれも死神の変容なのだ。舞踊の華やかさの背後にはつねに死が潜む。死はつねに世界を垂直に断ち切る。死に流行り廃りはない。誰もが必ず死ぬ。」(三浦雅士「身体表現の革新者たち」2012・2・16日経新聞夕刊記事より)



朗読 源氏物語(Tale of Genji) 若紫1 平安朝日本語復元による試み





『伝統音楽のすすめ~名人演奏と共に~ 声明・能楽箏曲地歌』(CD2枚組)

1. 涅槃講式(表白・初段)(声明|抜粋)
[演奏]青木融光

2. 横笛(平家琵琶
[演奏](語り)井野川幸次
(平家琵琶)井野川幸次

3. 熊野(村雨留)(能楽
[演奏]観世元昭
(笛)藤田大五郎
(小鼓)北村一郎
(シテ)観世元正(観世左近)
(ワキ)宝生弥一
(地謡)岡久雄
(地謡)浅見重弘
(地謡)浅見重信
(地謡)藤波重満
(地謡)藤波重和
(地謡)木原康次
(地謡)木原康夫
(ワキツレ)森茂好
(大皷)安福春雄

4. 高砂(能・謡)
[演奏](独吟)観世清和

5. 田植(狂言・小謡)
[演奏](謡)石田幸雄
(謡)野村武司
(謡)野村万作
(謡)野村万之介

6. 七つ子(狂言・小謡)
[演奏](謡)野村万作

7. 浮舟(箏組歌裏組新曲)
[演奏](箏)菊原初子
(歌)菊原初子

8. 琉球組(三味線組歌表組)
[演奏](三弦)富山清琴
(歌)富山清琴

9. 六段の調(筝曲)
[演奏](箏)米川文子

10. 千鳥の曲(筝曲)
[演奏](箏)米川めぐみ
(箏)米川敏子
(箏)米川裕枝
(歌)米川めぐみ
(歌)米川敏子
(歌)米川裕枝

11. 雪(地歌
[演奏](三弦)藤井久仁江
(歌)藤井久仁江

12. 勤行寺(地歌
[演奏](三弦)二代目富山清琴
(歌)二代目富山清琴

13. 都十二月(地歌SP盤復元)
[演奏](三弦)富崎春昇
(歌)富崎春昇

14. お夏笠物狂(一中節)
[演奏](三味線)都一中
(浄瑠璃)都一つや