松岡正剛著『法然の編集力』。難行、苦行などせずとも専修念仏、ただひたすら「南無阿弥陀仏」。
専修念仏、ただひたすら「南無阿弥陀仏」(言い易くナマンダブと言っている?)の称名を唱えさえすれば弥陀の本願、極楽浄土に万人等しく往生叶う・・・。
べつに極楽往生したい、浄土に住みたいとも思わない無信心(死んだら終わり、それっきり。カミホトケは生者のこの世での生きる支えにすぎぬと思っている・・・。手を合わせるのはそのため。仏典、仏説古典のひとつたりとも読んだこともないのに)な私ではありますが、この、難行、苦行などせずとも「南無阿弥陀仏」の6字の称名念仏にて救われると言う究極の易行、宗教思想は魅力であります。
人智を超えた3・11の大災害を契機として、生とは、死とは、カミホトケとは・・・と、無力感、空しさに揺さぶられ、誰しもが何らかの形で宗教に漸近したのではないだろうか。一切合切を救い上げる称名念仏「南無阿弥陀仏」の6字がことのほか響き、手を合わせこの世にこだまする。
【 生死を分けたものは?
分かりません・・・。
せっかく、究極の仏教思想の要約抽象「南無阿弥陀仏」が、仏典仏説のかくも長い歴史伝来の旅路、広大にして奥深い宗教的苦闘苦難から抽象され編み出されたウンヌンの<知>を開陳されると、無知にひとしい凡夫、凡人のわが身にはそれを追っかける<知>の難行苦行に逆戻りした感じで・・・編集要約ままならず、この程度の噛み砕かれた平易本さえ了解不能にて、まこと「往生しまっせ~」と漫才ギャグのひとつも飛ばしたくなる。
もう後がないトシになって・・・。あ~「南無阿弥陀仏」。
無相の相を相として
往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として
謡うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく
四智円明の月さえん
この時何をか求むべき
寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国
此の身即ち仏なり
無念の念を念として
謡うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく
四智円明の月さえん
この時何をか求むべき
寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国
此の身即ち仏なり