近藤譲『左岸』。多言を要さず、簡潔、シンプルな叙情。線の叙情。佇む叙情。それでいいではないか?そう言いたくなる。
「音楽は抽象的な音の構成であって、何も意味しない――すなわち、それ自体以外の何者も表現しない」という、絶対音楽を信奉唱える「形式主義者は、音楽は抽象的な音構成体自体以外の何ものでもなく、それ以上解釈の余地などない、と主張するかもしれない。しかし、私達は、事実「絶対音楽」にも、多くの感情を聴き出す。人間にとって、音楽は、表現内容を伝達するための媒体ではないが、同時に、純粋に抽象的な音構成体でもない。音楽は(あらゆる曲は)、人の生の内で解かれることを待っている謎である。私が作曲に惹かれて止まないのは、まさに、制作への専念が、謎の音楽的存在を――すなわち、真剣に解きたいという欲望を私自身の内に惹き起こす謎としての曲を――産み出すからである。私は、この、真剣に解きたいという欲望を惹き起こす謎を、私にとっての「美」と呼び替えてもよいと思う。」(近藤譲「<音楽>という謎」(春秋社)より)
ひと月ほど前に≪近藤 譲 『時の形』(1981)。この叙情・・・。≫とタイトルして、およそ30年ほど前の古いエアーチェック音源を投稿したのだった。
で、きょうも同じくそうした音源からの近藤 譲(こんどう じょう、1947 - )作品の投稿。
最後の数分が尻切れトンボなんだけれど・・・。
多言を要さず、簡潔、シンプルな叙情。線の叙情。佇む叙情。それでいいではないか?そう言いたくなる。
近藤 譲関連、投稿記事――
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/63255560.html 近藤 譲 『時の形』(1981)。この叙情・・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60347236.html 近藤譲「<音楽>という謎」(春秋社)。何故いままた、価値についての倫理的な問いとして「音楽とはなにか?」と倦むことなく堂々めぐりのごとく問い直さなくてはならないのか?。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60261600.html 近藤譲『音を投げる』(春秋社)。ジョン・ケージの投げかけた音楽上の革命的コンセプト(偶然性、人間理性からの音それ自体の解放)への真摯な思索的検討、いわば根源的思考。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/53086360.html 近藤譲『忍冬Hunisuccle』(1994)。しじまに撃ちこまれる楽音の弱音から強音へのクレッシェンド。静謐のうちに佇む抒情と簡潔、その余韻。「線の音楽」の豊穣を聴く。