yuki-midorinomoriの日記

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松岡正剛『フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾・方法日本・Ⅲ)』。そもそも原理原則、コアな理念、中心がない。デュアル・スタンダード。≪中空・均衡構造≫を深層の方法とし実践するわが日本。

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これをもって連塾シリーズ完結なんだそうで。
松岡正剛『フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾・方法日本・Ⅲ)』
ネット図書館でタイミングよく借り受けることができたので読んだ。

このシリーズはすでに以下を投稿している。


http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/61919596.html 松岡正剛(連塾…方法日本…Ⅱ)『侘び・数寄・余白<アートにひそむ負の想像力>』(春秋社)。「多様で一途」なニッポンへの「ウツ」「ウツツ」「うつろい」「おもかげ」などの代名詞的な正剛コンセプトの面目躍如

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/61372690.html 松岡正剛『連塾・方法日本・Ⅰ<神仏たちの秘密>』。主題としての「日本」ではなく(情報編集)の「方法(としての)日本」。


ちょいと分かりにくいけれど、≪主題としての「日本」ではなく≫、地政学的、文化的辺境日本ゆえの流れ来たった諸事諸物の「情報編集」の「方法(としての)日本」こそが大事で、それこそがグローバル世界を生きる道ではないか・・・。。
たとえば漢字導入から仮名を生み出し、国家構造(律令制)導入からは科挙は採り入れず・・・取捨選択する。

≪「日本」というのはそもそもが「方法という国」そのものではないかということです。≫

≪異種配合・共存(和光同塵・本地垂迩・公武合体)≫
≪グローバル・ローカル(和魂漢才・コードとモード)≫

編集の方法に「日本」をいきる。

新たまる年に神社へお詣りし、仏に死後浄土を欣求する。はてまたメリー・クリスマスとキリストの生誕をも祝う。わが宗教心の不可解さ。無思慮、無分別、無節操、ええ加減。さしたる痛痒も感じぬノンシャラン。これは何なのかとよく言われることだ。

よくいえば唯一絶対をもたぬ無碍なる精神。


原理原則、コアな理念、中心がない。デュアル・スタンダード。誰が(統合)責任者なのか?幕府か朝廷か薩摩か長州か?江戸幕末の日本の(権力の所在)正体不明。

日本の神話構造分析から、西欧型の中心統合構造(唯一神、父なる神、理念)ではなく、私たちの心性、根っこは≪中空・均衡構造≫と唱えたのは河合隼雄だった。
中心となるものがない・・・。

≪・・・このようにして日本神話の構造を男性原理と女性原理の対立という観点から見ると、どちらか一イメージ 2方が完全に優位を獲得し切ることはなく、たとい、片方が優勢のごとく見えるにしても、それは必ず他方を潜在的な形で含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性をもつ形態をとったりしていることが解る。このため、類似のパターソをもった事象が、その内に徴妙な変化と対応をもちながら繰り返し生じるという形式が認められるのである。これは、日本人の特徴としてあげられる、敗者に対する愛惜感の強さ、いわゆる判官びいきの原型となるものであろう。これはまた、先に述べた日本神話の中空性ということに関連づけるならば、日本の神話においては、何かの原理が中心を占めるということはなく、それは中空のまわりを巡回していると考えることができる。つまり、類似の事象を少しずつ変化させたがら繰り返すのは、中心としての「空」のまわりを回っているのであり、永久に中心点に到達することのない構造であると思われる。このような中空巡回形式の神話構造は、日本人の心を理解する上において、そのプロトタイプを提示しているものと考えられるものである。≫(河合隼雄「中空構造日本の深層」)




私たちはこのように曖昧、どっちつかずを選択し≪表裏一体・間柄≫<ウチ・ソト>の歴史を生きてきた。


≪・・・方法日本は本来と将来をつなぐ「面影(おもかげ)」とその正体を見ようとしてきたということです。
面影が日本のプロフィールであり、フィギュアであり、日本というシルェットであり、キャラクターなのです。
日本は日本神話の多くのエピソードがそうですが、必ずしもロジカルな起源など求めてこなかったし、またロジカルな帰結に向かってきたわけではありません。面影をさぐりながら本来と将来をつなげようとしてきました。そのときデュアル・スタンダードな方法にこそ日本の面影が入れ替わり立ち替わり出入りしたのです。そこが方法日本なんだということです。私はそれを「かわるがわるの日本」とも言っています。「かわる」と「がわる」のあいだに出入りする日本です。≫


≪・・・これでもわかるように、裏といっても否定的なものではないんです。「裏を返す」というと「同じことをやる」という意味になるように、そこには意外にオモテとウラの差別がありません。表と裏とを分けていながら、どこかでくっつけている。そこがメビウスの帯のようになっているんですね。つまり、そこには「表裏一体」という思想が生きているんです。

前回の第七講で、「面影」の面はオモテという意味で、もともとは物の表面をさしていたのが、やがて「奥」や「裏」のものがオモテにあらわれるという意味をもってきたという話をしましたが、まさにそこが表裏一体なんです。
ですからこの表裏一体の感覚は、そもそもが神仏習合などにあらわれ、それが本地垂迹説を通して、神本仏迹にも仏本神迹にもなっていったことによく特色づけられていると思います。

日本っていろいろな階層制があるにもかかわらず、どうしても厳密なピラミッド構造にならないところがあるんです。それは「どちらも立てる」というふうになり、ついには「さあ、どっちも、どっちも」とか、「よっ、ご両人!」というふうにもなります。
これは悪くいえば「どっちつかず」の思想です。ちゃらんぼらんです。また「暖昧思想」だということになる。しかし、その「どっちつかず」が必要な社会だからそうなっていったのだともいえます。こうして、そこに登場してくるのが「間柄」というものなんです。≫


≪・・・「負の想像カ」の問題です。ここには「地震枯山水」というちょっとドキッとするようなサブコピーがついています。
日本はそもそもがフラジャイルで、壊れやすい国土しか持ち合わぜてはおりません。地震は頻繁におきますし、火山爆発もある。しばしば大津波も襲います。台風は二百十日をめざして何度もやってくるし、鉄砲水や出水もすぐ出ます。それゆえ山崩れや土砂崩れはどこにでもおきてしまいます。
明治の中期までは大半の家は木と紙でできていて、すぐに燃え落ちました。それがやっと鉄筋モルタルとガラス窓に変わっても、地震があればたちまち潰れました。なにしろ日本列島は無数の活断層の上に乗っかっているのだし、海底プレートがずるずる動く上で暮らしてきたのです。

イメージ 3しかし、私たちの母国はこのような「壊れやすさ」を受けていながらも、その国土に生きてきたのです。暮らしてきたのです。それゆえ日本にとって「壊れやすさ」とは必ずしも破壊的だということではありません。壊れればまた再建し、衰えればまた蘇るということでもあったのです。ただ、いつも「目に見えての変化」があるということなんです。その有為転変と世の無常を受け入れてきたのです。
が、そうであればこそ、その日本には四季の色と風があり、花鳥風月がうつろい、火山列島のそこかしこに温泉が湧き、清流に鮎がはねてきたのです。こういう風土では、私たちはどうしたか。それなりの「負の想像カ」をはたらかせて生きてきたのです。

イメージ 4いったい「負の想像カ」って何でしょうか。「負」はナッシングではありません。数学でマイナス記号のつく数値があり、また虚数があるように、あるいは物理学で反物質反陽子があるように、世の中には「負」というものが"ある”ということなんです。「負」はナッシングでも真空でもヴォィドでもないんです。「いまそこに何かがない」ということが「見える」ということなんです。
むろん、それがダメージやリスクになることも、ありえます。けれどもその「負」をもつことによって、「余白も文様のうち」であるように、あるいはまた「未完成であることが想像力によってそこに何かを加えられる」ように、私たちは「負の想像カ」をはたらかせることが可能なんです。

イメージ 5これが「地震枯山水」というサブコピーの意味です。以前にお見せしたイサム・ノグチの蹲(つくばい)じゃないですけれども、未完成やフラジリティや引き算は次のものを生んでいく可能性でもあるのです。佗び茶では引き算することによってそこに何かがあらわれました。四畳半から三畳へ、三畳台目から二畳台目に引き算していくことによって、広間では見えなかったものが何か見えてくるのです。
さらに枯山水がいちばんわかりやすいと思いますが、枯山水は「水を感じたいから水を引いた」わけですね。日本の想像力には、そういうところがはたらいているのです。≫(上記引用すべて松岡正剛『フラジャイルな闘い 日本の行方(連塾・方法日本・Ⅲ)』より)