yuki-midorinomoriの日記

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『日本の伝統音楽/尺八~禅・スピリチュアル』。「もともと音楽は自然から学んだというか、ひきうつしたものですから、やはりいったん自然に帰してやらなきやいけない。」(武満徹)

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鹿の遠音

                


    た と え ば 尺 八 は 謎 で あ る。


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イメージ 2松岡正剛杉浦康平)――分化されてゆく音というか音楽というのはつまらないですね。創世記ふうには「はじめに光ありき」だけれど、「はじめにあった音」とは何かということを考えてゆくことの中にしか、これからの音楽の可能性を見出すことはできないようにおもいますね。それは、もっと多様な方法を使って、物理学や人間生理のすべてを動員して考えるべきですよ。そこに音楽がある。自然との関わりを無視して音を問題にするわけにはいきませんね。
                画像:「遊]1973年 特別号・6 →

武満――自然と人間を分けて考えること自体がおかしいんですよね。もともと音楽は自然から学んだというか、ひきうつしたものですから、やはりいったん自然に帰してやらなきやいけない。僕はバリ島で真ッ暗闇の中で行なわれている影絵とその音楽を聞いたことがあるんですが、その土地の人にとっては、まず暗がりでも影絵ができるという自然に対する同化作用と、それから伴奏の音楽は演じられているものを天に帰してやるためのものだという気持が、ふたつながら一緒になっているんですね。

(松岡+杉浦)――それはおもしろい。エスキモーなどもふくろうのように体をふくらませて声を出しますね。あれなんかも自然に同化しているんでしょうね。

武満――それは大事なことですよ。単一の音を狙っていたんではそういう発想にはなれませんね。僕の場合も、いったん譜面になった音楽をどんどん重ねてしまうことによって、遂に自然との同質性に近づこうとする方法を探っているんです。そういう音楽はほとんど演奏されませんが、しかし自分自身にはそれによって創造している状態が少しずつ生々としてくるわけです。

(松岡+杉浦)――そういうナチュラリティを志向している形式はないんですかねえ。楽器にはありますか。

武満――尺八ですね。東西を通じても尺八くらいのものでしょう。

(松岡+杉浦)――ほう!

武満――目本の尺八は五ッの穴があって、実はその音階自体は底抜けに明るいものなんですが、それを指の微妙な押え方によって、音を殺すというか、つまり最も鳴りにくい状態にして吹くわけですね。こんな不思議な楽器は世界のどこにもありませんよ。しかもどういう音を出すべきかというと、「朽ちた竹藪に風が吹いていればよろし」というような音をめざす。つまり、つまみ出せるような音ではなくて、もっと微細な、一ッの音がその音自身の中で他の音に触れるようにするわけですね。だから普化宗などの訓練では朝の四時頃から起きて、最初に尺八を口にあてた時の最初の音だけを、一日中吹くわけです。しかも、なるべく長く吹く。海童道祖(わたつみどうそ)老師は一つの音をまったく切らないまま無限に吹けますよ。おまけに尺八はもともとは吹奏楽器ではなくて打楽器に近いイメージだと考えられていたんですね。音を打っているんですね。
 もう一つ尺八が不思議なのは、琵琶などでよくいうんですが、さわりという問題があるんですよ。一ッの音がその中で他の音にさわるわけですね。さわりというのは他流派の音を取る、さわる、ということから出たらしいんだけど、本当は雅楽の笙の舌の部分のことを意味しているらしいですね。

(松岡+杉浦)――舌というのは鈴とか銅鐸の中にぶらさがっているあの舌と同じですか。

武満――そうです。だいたい尺八は鈴との縁が深いんです。海童道祖の道曲に「霊慕」という曲がありますが、霊という字は本当は鈴だというんですね。鈴慕ですね。

(松岡+杉浦)――それはおもしろい。鈴というのは銅鐸すなわちサナギの後身で、サナギという語には真空にさわるといった意味があるんです。鈴のことも古代語ではサナギといいますし、サナギは魂を振るための呪力をもった楽器だったんですよね。その音を尺八が慕うとすれば、これは深遠な音をさぐろうとするのは当然ですね。

武満――たしかに尺八にはそのくらいの謎の深さがありますね。ジョン・ケージは「尺八は竹の根かたを吹く、と言っているからすばらしい」なんていいますが、彼の場合は尺八の本質は全くわかっていなくて、その証拠には舞台上に電気釜をおいてその中でお米がクチュクチュ煮える音をスピーカーで拡大してみたりする。それが尺八の真髄と近いんだと思い込んでいる。これは僕から言えば古いロマンチシズムにすぎないとおもうんですよ。尺八の人たちはそんなことを言っているんではない。

(松岡+杉浦)――やっぱり自然に対する接し方が違っちゃってるんですよ。ヨーロッパにはわからないことですよ。

武満――インドまででしょうね。

(松岡+杉浦)――西洋との間にあまり貸し借りの関係がない楽器がいいですね。それは楽器だけではなくて文明のかたちでも同じことですが――。西洋には合理性があって東洋には合理がないというけれど、そんなことはなくて、自然に対する合理の意味が違っているんですよ。尺八の一尺八寸という長さは、そういう西洋と東洋を分別する尺度でもあるんでしょうね。

武満――インドネシアの尺八的なものは一節で出来ていて、その中に穴を全部入れているんですね。


        【「]1973年 特別号・6(「樹の鏡、草原の鏡」(新潮社)】








『日本の伝統音楽/尺八~禅・スピリチュアル』

1. 鹿の遠音 Shika no Tône (Kinko Ryû
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3. 三谷菅垣 San'ya Sugagaki
4. 鶴の巣篭 Tsuru no Sugomori (Tozan)
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6. 峠八里 Toge Hachiri
7. 湖上の月 Kojo no Tsuki