ボロディン『交響曲第1・2番/中央アジアの草原にて』。泥臭い民族的濃厚からは、少しく離れヨーロッパ的洗練の抒情流麗。
【「私たちは1862年11月にロシアヘ帰ってきました。……私たちがちょうどこの1ヵ月の間バラキレフと知り合った成果が、信しられないような早さと強さをもって結実して、私はただただ驚いています。もう12月には、この西欧主義者が、ほんの最近メンデルスゾーン風にスケルツォを書いたばかりの゛熱烈なメンデルスゾーン主義者″が、変ホ長調交響曲の第1楽章を、ほとんど完成して私に弾いてくれました。 ……1863年4月に私たちはサンクト・ペテルブルグで結婚式を挙げました。すでに5月に、彼は私に交響曲の終楽章の一部を見せていました。 ……スケルツォは1864年に作曲され、アンダンテは1865年に形ができました。このような経過で交響曲はできあがりました。この年に私たちは再び外国に出かけ、グラーツに滞在しました。アレクサンドルは古いお城の園邸の付近で、カルパチアの山々に散歩に出かけて帰ってきましたが、そこでアンダンテの変ニ長調の中間部が彼の頭に浮かびました。特に、揺れ動く伴奏に乗ったあの溜息が本当にすばらしい効果でした。 彼がピアノの前に坐って作曲する姿が、今でも目に浮かびます。彼はこのような時には何時間も我を忘れて、この世から飛び去っていました。彼は一度に10時間も全てを忘れて坐りつづけたものです。彼は食事も、睡眠もとらなくても構いませんでした。そして彼がこのような仕事を中断した時には、通常の心理状態に戻るまでに随分時間が掛かったものです」】。(エカテリーナ・セルゲーエヴナ・ボロディーナ「回想記」同梱解説より)
ロシア国民楽派は、あまり関心がなくほとんどまじめに聴いてこなかったこともあって、きょう投稿するアレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(Alexander Porfir'evich Borodin, 1833 - 1887)が、斯界で歴史に名を刻むほどの多くの業績をあげた高名な化学者であることをはじめて知った。学問研究の研鑽ゆえ正規の音楽をうけておらず、自らを音楽好事家、ディレッタント、日曜作曲家と称していたことなども・・・。
たしかにロシアの大地の風気を感じさせる民族性を趣としてもつとはいえ、その響きは泥臭い民族的濃厚からは、少しく離れヨーロッパ的洗練の抒情流麗を謳いあげている。【グルジア皇室の皇太子ルカ・ゲデヴァニシヴィリの非嫡出子として生まれる。】(WIKI)という出自や、医師、学者という社会的身分ゆえなのかどうか・・・、辟易させるような主張のねちっこさはない。