ストラヴィンスキー『「春の祭典」&「ペトルーシュカ」』。作者以上のものを語って魅せたサイモン・ラトルの『春の祭典』。【ストラヴィンスキーなのか、サイモン・ラトルのストラヴィンスキーなのか?】
春の祭典「聖なる舞踊」
「私は、音楽は、その本質からして、感情であれ態度であれ・心理状態であれ自然現象であれ、何ひとつ表現することはできないと考えている。表現は、これまで音楽の本質的な特性であったためしはなかった。」(ストラヴィンスキー)
ストラヴィンスキーの1910年代バレエ音楽名作固め打ちのひとつ「ペトルーシュカ」を聴こうとネット図書館で借りた。けれど、指揮がサイモン・ラトルで、演奏が、自身が世界クラスに育て上げたバーミンガム市交響楽団ということで、やはり白眉はその『春の祭典』。以前、2年半ほど前に
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/61692099.html ストラヴィンスキー 『交響曲集』。ストラヴィンスキーなのか、サイモン・ラトルのストラヴィンスキーなのか?
とタイトルして投稿した。そこで、以下記したのだった。
【それにしても、このストラヴィンスキーの魅力は、作曲家自身のものなのか、それとも、これら作品を見事にリアライズした指揮者サイモン・ラトルの才とすべきなのか。作品の生動する重層的構造を色鮮やかに展開、響かせて魅せるサイモン・ラトル。『詩篇交響曲(SYMPHONY OF PSALMS)』の、歌唱と楽音のスピリチュアルな融合がつくりだす宗教的荘厳も、この指揮者のワザの内にあるといっていいのだろう。
ストラヴィンスキーなのか、サイモン・ラトルのストラヴィンスキーなのか?】
ストラヴィンスキーなのか、サイモン・ラトルのストラヴィンスキーなのか?】
今回もその感強くしたのだった。
みごとな演奏、リアライズという以上のものがここにはある。もし、歴史のめぐり合わせでサイモン・ラトルの演奏を聴いたなら、作曲家であるストラヴィンスキーは、これが俺の作曲した『春の祭典』なのか?と驚いたのではと斯く思わせるものがある。作曲家の意図したイメージをそれは突き破るほどの衝撃と斬新を与えたのでは・・・。作曲家を超えた鮮烈の現代のパフォーマンスといっていいのかも。
音作りの鮮明さ、その輪郭の精確さは超精細なデジタル処理のごとく現代的で、ディナミーク、「生動する重層的構造」を展開刻むリズムの精緻さは驚くべきのがある。突出した鮮やかさ・・・。
もっとも、5年半ほどまえに同じようなことを
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/50850328.html 『春の祭典』のストラヴィンスキーは凄い。それにもまして、『春の祭典』を、斯く現実化した指揮者ピエール・ブーレーズも、もひとつ凄い。
と言っていたのだけれど・・・。