yuki-midorinomoriの日記

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モダニズム(電子・音響開発)と日本的心性・余情(鐘、読経)との出会いにうねる精神の発露を聴く黛敏郎の『涅槃交響曲』(1959)

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黛敏郎:涅槃交響曲 第二楽章 「首楞厳神咒」 Mayuzumi:Nehan Symphony

            

前回あらゆる邦歌曲の淵源である<声明(しょうみょう)>を取りあげて、ならば次はまずこの曲ということで、この作曲家にとっては指折りの名曲だろう黛敏郎(1929-97)の『涅槃交響曲』(1959)である。いかな西洋音楽の中枢とはいえ伝統的な技法修学に意味を見出せず、1952年一年ばかりで見限って早々と政府給費の留学先フランスから帰国。その後若手前衛作曲家として先端的手法など採り入れた作品を矢つぎばやに発表、その華々しい活躍に耳目を集めることとなった。わが国で一等最初にミュジーク・コンクレートや、電子音楽をてがけ、またプリペアード・ピアノなどを使っての作曲をものしたのも黛敏郎であった。そうした先端きっての前衛音楽へのアプローチの動きに見えるのは≪構造的な理論よりは音響への≫関心であった。初期電子音楽の代表作といわれている、1956年諸井誠との共作<7つのヴァリエーション>の発表時点に「機械は、人間が人間的であるより更に人間的でありうる」とまでコメントしている。のちの民族主義的で右派の代表的な芸術家としての顔を見せる黛敏郎の言葉とは到底思えないような言葉である。右派的心性を醸成するロマン主義的な自然回帰にはほど遠い言葉ではないだろうか。もっともこの言葉、認識は単に彼の<音色・響き>へのこだわりの強さを意味し、機械が想像(人知)をはるかに超える<音連れ>をもたらす力を見せることへの賛仰を意味しているだけかもしれない。彼のこうした音色・響きへの関心が、いわば非有機的なミュジーク・コンクレートや、電子音楽の作り出す音響開発から、鐘の音を音響スペクトル解析し、そこで得た<純音を電子音楽的に合成>してもとの鐘の音色を作り出す試み、いうところの「カンパノロジー」を結果した。天啓にうたれたごとく「心臓をキュッと締め付けられるように感動」(黛敏郎)する鐘の音の正体は、「カンパノロジー」を結果した単なる響き・構造への関心をつきぬけ、もっと奥深く、そうした感動をする自分とはいったい何か?に求められるべきではないかという自問の果てに、この『涅槃交響曲』という名曲が結実したということなのだろう。日本的心性への回帰がありつつも、集合的な音響・音色への時代的な関心と軌を一にした見事な成果ともいえようか。またモダニズム(=電子・音響開発)と日本的心性・余情(=鐘、読経)の出会いの中、うねるような、たぎる精神の発露をここに聴くことだろう。「カンパノロジー」から引き出された各々の音色を荷なわされたオーケストラの各楽器が作り出す音塊の響の斬新さと、「大勢で諷む場合、不可避的にいろいろなピッチが混合されて、一種の集合音が出来上がるという点・・・・きわめて雑然とした、偶然性に左右されるところの多い音楽である」経を集合して読経する<声明>がつくりだす、法悦的な呪文めいた経の反復の力強い響き。このふた様の響きがつくりだす世界は圧倒するうねる迫力で聴くものを包み込む。いまさら言うまでもなく傑作であり、若きアヴァンギャルドの日本近代への果敢で真摯な切り込みの成果でもあるだろう。