yuki-midorinomoriの日記

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強烈な沸き立つ民族(民俗)感性のほとばしりをオスティナートの高揚に聴く伊福部昭の『ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ』(1961)

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Akira Ifukube: Ritmica Ostinata(1961)伊福部昭トミカ・オスティナータ

              

「自己に忠実であれば、必然的に作曲家は民族的であること以外に、ありようはない」(解説・木村重雄より)と伊福部 昭(1914-2006)は語っているそうである。これもひとつの信念ではあるだろう。≪1879年(明治12年)、文部省に伊沢修二を御用掛とする「音楽取調掛」が設立され、日本国の音楽教育に関する諸調査等を目的とした。翌年以降、師範学校付属小学校生や幼稚園生への教育、音楽教員の育成を行い、音楽専門教育機関の役割を果たすようになった。その後数回の名称変更を経て、1887年(明治20年)に「東京音楽学校」と改称される。≫(WIKIPEDIA)だがその官制の音楽学校に和洋楽器習熟のための各楽科は設けられたものの<昭和の初めにはまだ音楽学校には作曲科というものさえなかった。東京音楽学校<現・芸大音楽部=明治12年創立>にはじめて作曲部が設置されたのは、なんと昭和7年(1932年)のことであった。―秋山邦晴>。こうした背景もあってか伊福部 昭もまた他の多くの戦前活動した民族派の作曲家同様、独学であった。とはいえ、その自前で培った実力はフランス・パリでのチェレプニン賞第一位を受賞する。≪この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平とは新作曲派協会を結成することになる。≫(WIKIPEDIA)こうした国際的評価を受けたことにより名実ともに知られることとなり、そうしたこともあってだろうか、≪1946年から1953年まで東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科講師を勤め、初めて担当した芥川也寸志黛敏郎などから大変慕われた。特に前者の芥川は初日の授業の後で伊福部に付いて行き家まで上がりこんだという逸話を持つ。そのほかにも教育者として矢代秋雄三木稔、石井眞木、松村禎三和田薫など多くの作曲家を育てた。≫(WIKIPEDIA)教育者としても名伯楽であった。ところでこの伊福部 昭の出自を聞くとその強固な民族(民俗)感性へのこだわりもむべなるかなと思わないでもない。伊福部に最初に師事した芥川也寸志の指導のもとに、1956年に創立されたアマチュアオーケストラ「新交響楽団」の≪第145回演奏会(94年10月)プログラム≫の対談記事には以下のくだりがある。


≪小宮―― 今、手がけられているのは何ですか。

伊福部―― この10月30日に私の故郷一一鳥取因幡、白兎の因幡ですが、国府町というところに因幡万葉歴史館というのができるんです。大伴家持(おおとものやかもち)と私家(因幡の豪族の娘であった伊福吉部徳足比売(いふくべのとこたりひめ)の古墳があり、伊福部昭は67代目にあたる)のご縁で、そこの開館式に大伴家持の歌で演奏会をやりたいので曲を書いてくれということになりました。お箏とアルトフルートと歌の3人です。この歌は因幡の国守だった大伴家持国府へ来て詠んだ万葉の最後の歌で、「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事」で始まり、5曲になります。≫


因幡の古代豪族を先祖とする。伊福部昭の代で67代目≫(WIKIPEDIA)ここいら、どこかの馬の骨から聞くと、この由緒には恐れ入る。みんながみんなそうであるとは限らないのは百も承知とはいえ、民俗伝統が顔出し主張しても不思議はない出自と思わせる。誰が聴いても強烈なオスティナートの魔力には、躍動する生命力を感じ高揚すること間違いないことだろう。師事した芥川也寸志松村禎三などには特にその良質の典型の結実を名作として聴くことになる。オスティナートの高揚する魔力、カタルシスが奈辺にあるのか、その理を識りたいところだけれど、またの機会として措いておこうとおもう。私のようなシロウトがくだくだ述べるより、先人の労苦の伊福部昭音楽の考究指摘をあげておこう。

作品の特徴

•シンプルなモティーフの反復・展開
これはアイヌなどの先住民族の音楽に影響されたもの。旋律はメリスマ(日本音楽でいう『こぶし』)と呼ばれる豊かな装飾を受ける。

•民族的旋法の使用
伊福部作品の多くにはフリギア旋法に近い旋法、五音音階が用いられている。結果、西洋的な調性、つまり主音の拘束から自由になっている。

•三和音の否定
これは西洋的な響きを嫌ったためで、2度、3度、5度、8度は積極的に用いている。結果、機能和声からは自由になり、ドローン(持続低音)的な要素が大きくなる。

•リズムの重視
伊福部は、西洋音楽はリズムを無視した結果袋小路に陥った、としてリズムの復権を主張した。そこから、次のオスティナートの使用へと繋がっていく。

•オスティナートの重視
師匠のチェレプニンからは、「現代音楽のアキレス・ポイント」であるから避けるように、と指示されたが、伊福部はオスティナートこそアジアの音楽で重要な書法だ、と位置づけて創作に取り入れた。
伊福部は、アイヌ音楽について解説した文の中で、『反復すること其れ自体に重要な意味がある』と述べている(「音楽芸術」1959年12月号『アイヌ族の音楽』より)。

ソナタ形式の否定
これは、日本的美意識に照らし、機械的な主題再現を嫌ったためで、実際に伊福部の曲には主題提示→展開→発展的終結、という構成のものがほとんどである。

•充実したオーケストレーション
『日本狂詩曲』以降晩年まで変わることのなかった充実したオーケストレーション技法は名著『管絃楽法』に凝縮されている。

       (WIKIPEDIA)より


旋律のない現代音楽はどうもなじめない、かといって形式美の絶対音楽もなんだかその展開を追うことに聞き疲れる。といった悩み、病める音楽ファンには是非この伊福部昭の「自己に忠実であれば、必然的に作曲家は民族的であること以外に、ありようはない」との信念がものした『ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ』(1961)を聴き、≪・・・そして、曲は一瀉(いっしゃ)千里、怒涛のようなかたまりを加えつつ進行し、トゥッティがリズムを強調しつつ、壮大に結んでいる≫(解説・木村重雄)その強烈な沸き立つ民族(民俗)感性のほとばしりをオスティナートの高揚とともに味わっていただき、その感動を日本の現代音楽を聞くきっかけとしてほしいと思う。それにふさわしい名曲であることは確かだと私は思っている。B面収録曲は小山清茂(1914-)『管弦楽のための木挽歌』(1957)、外山雄三(1931-)『チェロとピアノのためのこもりうた』(1953-54)の2曲。心苦しいけれど一言申し添えると、こうした二作品のような無媒介な、みよがしの民族(民俗)性がかたや日本の現代曲をファンから遠ざけるだろうことを残念に思う。私だけの意見かもしれないけれど。山田耕筰で十分だと思いたい。