yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

記憶のクビキから解き放たれたような奇妙な音の振る舞い。ピュアーでシンプル、美しい高橋悠治の『ローザスⅡRosace』(1968)ほか。

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高橋悠治
イメージ 2こんなにシンプルで美しい作品だったのか?泣かせるね、といったところ。A面1曲目、『毛沢東 詞三首Three Poems of Mao Tse-tung』(1975)と2曲目の『ローザスⅡRosace』(1968)である。ともにピアノソロ作品。こうした音楽にとってタイトルとは何か?何の意味もなさぬように思える。当時(文化大革命終焉の時代であったろうか)それなりの思い入れがあったのだろうけれど、今となっては、受け手としてはギョっとするだけである。しかし≪歌曲「毛沢東詞三首」(1975-76)にもとづくピアノ曲≫(レコード解説)だそうである。そうした背景があろうがなかろうが、文句なしに美しい。べトつかないサラッとしたリリシズムといえるだろうか。政治的メッセージ性、衆愚大衆性とおよそかけ離れたシンプルな美しさはそうしたなか特筆ものだ。彼の中国社会主義変革へのイデオロギー的シンパシーなど、その美学にはおよそ関係のない事柄であったように思えるのだけれど、どんなものだろう。そしてまた『ローザスⅡ』の、なんとも頸木(クビキ)から解き放たれたような奇妙な音の振る舞い。それがかつて聞いたことのないようなピユアーな音の遊戯のような印象をもたらして、心はリラックスである。B面の1曲目、シンセサイザーの持続音とキーボードによる『橋Ⅰbridges』(1968)。これは何でもスイスの世紀の天才数学者オイラーの≪ケーニヒスベルクの橋≫問題として語られる、いわゆる≪一筆書き問題≫。そのオイラーの後のグラフ理論を曲の≪メロディ構成の原理≫として使った作品だそうである。さやさやとシンプルで、まことに結構と云った世界を聞かせてくれる。2曲目の『メアンデルMaeander』(1973-76)もまた記憶から遠い純なるメロディの生成に世界は初めてその相貌を新鮮な快哉のうちに美しく見せ始める。ここにはケージと同質の簡潔純朴な世界があるとも云えるだろうか。確かにこの頃の高橋悠治の紡ぎだす音はピュアで美しく面白い。

≪「旋律とは音の自然の状態ではなく、<音>を人間のひとつの価値観や趣味や感受性で、つまり個人の意味づけによって構成するということだ。」(秋山邦晴)そうした自己維持・自己表現の上で成り立つ表現行為は、<音楽>を「人間の生活の中での創造力への行動」としたケージにとっては変革されるべき事象以外のなにものでもなかった。そして親交あったダダイストマルセル・デュシャンの「二つの似た事物、二つの色彩、二つのレース、二つの形態といったものを識別する可能性を失うこと。互いに似ているひとつの物から他の物へ記憶の刻印を移すことのできる、視覚的な記憶を不能にするような状態に達すること。音についてもおなじ可能性、つまり脳髄現象」(デュシャン語録「音楽・彫刻」)というメモ書きにあるとおり「記憶の識別によってなりたつ関係=旋律などで音をとらえることを拒否する」(秋山邦晴)といった人間認識のなりたつ根源を揺さぶり、かつ撃つ、ケージの脈絡のない、初めて聴くような音の提示の実践≫(マイブログ、ジョン・ケージの稿より引用)


「記憶に焼きついたものを他のものにそのまま写してはならない」(デュシャン)

                                 マルセル・デュシャンソナタ」(1911)
   
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