yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

<地と血>の特殊を包摂した普遍的な人間のエモーショナルな緊密な響き。間宮芳生(みちお)の『セレナード』(1971)と『9人の奏者のための協奏曲』(1972)。

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間宮芳生(みちお)
イメージ 2先日、実にひさかたぶりにバルトークを取り上げた。私は偏奇で偏狭なゆえか、同じく民俗、民衆音楽を探求しそれらの<地と血>を音楽の立脚とせんとしたといわれているコダーイなどには感心した覚えが無い。もっとも新古典主義派と音楽史で括られている作曲家はなぜだかあまりフィットしない。要するに、ストラヴィンスキーバルトーク以外は多少なりとも感心するという印象の記憶が無い。極端な謂いかもしれないけれど、西欧の彼らの作品を聞くより今日取り上げる日本の作曲家・間宮芳生(みちお)らの作品を聴いている方が感性的にはフィットする。よく構成力などに劣り、論理より感覚・感性に頼る情緒的な(情緒にながされる)作品が日本の作品には多く、それが難点だといわれたりする。そうだろうか。私にはそうは思えないのだけれど。情緒的なといわれる武満徹が素晴らしいように、彼と同じように、しかし、まったく違う作曲コンセプトのもと素晴らしい作品を残している今日の間宮芳生(みちお)も負けず劣らず素晴らしい。もっと日本の作曲家の作品を聴こう!という思いもあって取り上げた。すばらしいですよ!武満世代の作曲家は。『セレナード for Soprano, 2 Violin, Viola, Violincello and Fortpiano』(1971)と『9人の奏者のための協奏曲』(1972)。その「セレナード 」への作者の言葉が彼の意図せんとするコンセプトを表してもいるだろう。それは以下の如くである≪「ここでの肉声は、人間の内奥にひそむ憧れ、期待、願望の声の端的な表現である。一人の主人公(多分女)を想定してもよい。器楽がえがきだすのは、願望が投映されたさまざまなイマジネーションのはばたきか、それとも現実に出会ったかもしれない体験なのか。そして曲は肉声と器楽との身を焦がすような対話ですすめられる。またあるいは、深更に始まり、東のしらむ頃までという時間の経過を想定してもよい。題名もそんな想定と無縁ではない。そしてさめゆく心のうちに、昼の光にも消しきれない始めと同じ期待と願望は残されているだろう。」≫(中入れ解説書より)このように、これらの作品には<地と血>の特殊を包摂した普遍的な人間のエモーショナルな根幹が捉えられようとしている。ひじょうにエモーショナルで緊密な響きの作品となっている。とにもかくにも、こうした優れた作品があるのだということを声を大にして推奨したい。いまや、どれ程のひとが間宮芳生(みちお)のような武満と同世代の作曲家の作品を聞いているのだろうか。レコード店の棚を見回してもさびしい限りだ。