yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

テリー・ライリー『HAPPY ENDING』(1972)。遊びにも似た反復、繰り返しの愉楽。反復のズレが流動生成もたらす偶然の清新一閃の響き。

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Terry RIley Crucificion Voices

             
             投稿音源のものではありません。


これらはブログ稿のタイトルであった。

【・・・最後に大岡昇平のことばを引用する。《人間の存在の根源的なひとつの要素として、子供が繰り返しを喜ぶということがある。同じことをしているんです。それは一種の遊びでもあるけれど、われわれの身体条件の中にあるわけですよ。ところが、生活の条件が繰り返しにあるとはゲーテがすでに言っている。まったくゲーテというやつは、たいていのことは言ってしまっているようですね。》飽きるほどの繰り返しにも意義はある】

イメージ 2として、だいぶ以前上記ブログ記事を投稿した。もちろん今回取り上げる「反復音楽」いわゆるミニマル・ミュージックのすぐれた実践者の一人テリー・ライリーTerry Riley(1935 -) の紹介アルバムの稿にてであった。この「反復音楽」≪ミニマル・ミュージックにつながる最初のきっかけは、スティーヴ・ライヒSteve Reich(1936 - )がテープ音楽によるパフォーマンスを試みたことに始まる。彼の最初期の作品「カム・アウト」(1966年)「イッツ・ゴンナ・レイン」(1965年)は、コピーされた2つの同じテープループを2つの再生装置で同時に再生するが、そのわずかのテープの長さの違い、あるいは再生装置の回転数の微妙なずれにより、最初はほぼ同期していた2つのテープの音声(2つとも曲名にある単語をしゃべって録音したもの)がだんだんずれていく。このずれによるモアレ効果に着目し、単純な反復を繰り返すうちにずれが生じる=徐々に微細な変化を遂げる作風を器楽作品にも当てはめた。ライヒの初期の作品「ドラミング」や「ピアノ・フェイズ」がこれにあたる。・・・ミニマル・ミュージックは発想の原点こそテープループという機械的技術から生まれたものだが、ヨーロッパおよびその他いろいろな地域(特にアフリカや東南アジア)の伝統音楽には反復の要素が多く見られ、音楽的な発想としては昔から多くの民族において認知されている語法だと言える。ヨーロッパに話を限定すれば東欧の民俗音楽にはオスティナートが多く見られるし、例えばショパンがよく用いたマズルカの様式の原点にあたるポーランドの民俗舞踊マズール、クヤヴィヤク、オベレックは、基本的に反復オスティナートに基づいている。またクラシックの近代音楽においては、ラヴェルの後期(ピアノ協奏曲など)、ストラヴィンスキーの作品(初期の三大バレエおよび後年の「結婚」など)あるいはそれに影響を受けたオルフの諸作品などに見られるオスティナート語法は、西洋音楽史において後のミニマルにつながる温床であったとも言える。)≫(WIKIPEDIA)とあるように、その原点出所は「オスティナート」にある。執拗なまでの繰り返しがもたらす高揚感。それと音のモアレ、ズレともいえるヘテロフォニーが作り出す≪偶発的に瞬間的なポリフォニー≫の生成に人間的な響きを聴き、またそこに動きの斬新を感じるという音楽認識=存在の提示であった。その音楽現象の背景には<繰り返し・反復>、<複雑>、<秩序生成>などと言ったキーワードが横たわっていると言えるのだろう。それと<繰り返し・反復>の持続の極端型=ドローンの瞑想が作り出す永遠性の時間表出。ここにも<繰り返し・反復>のもたらす恍惚の不思議の根因があるのだろう。≪ごく自然な音域のしずかに持続する音に人はどうして心ひかれるのだろうか。区切られた音よりも持続する音に、ある種瞑想的な心の静穏を誰しも感じるのではないだろうか。なぜだろう。人間にとっての時間のありようゆえなのだろうか。ジョン・ケージは聴こえない沈黙に音楽行為での意味を投げかけた。また偶然性を持ち込んで音楽時間のつながり関係の目的合理性からの解き放ちをこころみたと言われている。そのケージの問いかけ実践を、<音がする持続する沈黙=反復の音楽>として展開したのが、アメリカでのケージ後のスティーブ・ライヒ、ここに採り上げるテリー・ライリーらであった。変化しない音がなり続ける。それは沈黙と同様の、<無時間の持続>でもある。<沈黙としてのドローン(持続音)>。ところでこれらミニマルミュージックに聴かれる単純な反復によって形成される持続は変化の移り行きが極めて緩やかであるため同じものの繰り返しに聴こえる。それ故それらは<沈黙としてのドローン(持続音)>と同様に聴こえるだろう。《無時間にねざした反復の音楽、それらに対しての伝統音楽の目的合理性の音楽的時間-近藤譲アメリカに展開されたミニマル・ミュージックにこうした<時間>からのはばたきの実践を聴くのは理屈でしかないのだろうか。わずかの音のズレ、変化、それらに気づき聴いたときの心のほのかな愉楽をよしとする音楽。≫(拙ブログ稿より)また次のようにも投稿記事とした。≪沈黙、無音を音たらしめるのも音であろう。音によって沈黙も意味をなす。老子だったか「大音は声希に、大象は形なし」大きな音は聞き取れぬほどかすかで、大きな象(形)はその姿が目に映らないといっていたと思うが、無を無として、沈黙、無音を聞き取れぬほどの大音、濃密な音と人が感得するのは存在の、有のそこはかとない消息のうちにしかありえないだろう。なぜなら無は有であるわけはないのだから。≫(拙ブログ稿より)まさしく≪有のそこはかとない消息のうちに≫私たちは、無を、いや幽そけき存在を生きているのだろう。今回のテリー・ライリーのアルバム『HAPPY ENDING』(1972)は映画(「les yeux fermes」)音楽用のためのもので、ひじょうに聴き易くかつメロディアスだ。ライリーと他二人のトリオによるパフォーマンスのもの。B面など、なんだか日本の民謡、追分の旋律の反復音楽のように聴こえて心地よく聴けた。ここにはよく言われ口にされる、事実そういう面もなくはない反復音楽の退屈はない。ということもあり、機会あれば是非聴いていただきたいものの一枚。