yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ピエール・アンリ『エジプト人の死者の書』(1988)。ノイズの轟然に茫然自失となるとき私に開け示される世界は思念及ばぬ<空・くう>であり、無の存在の現成である。音を連れてそれ!は漸近する。

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           Pierre Henry : Dislocation
           http://www.youtube.com/watch?v=NH1c-18wxas
≪原始古代では調律されていない騒音や雑音が主体であった音楽は次第に平均律の構造にむかい、近代においてすっかり騒音を駆除し終わったところへ、再び騒音の復権が持ち出されてきたという結構をみることができる。「騒音から楽音へ」という古代から近代への流れは、1950年前後のミュージックコンクレートと電子音楽によって大軌道転回を迎え、再び「楽音から騒音へ」の正念場を経験させられるわけです。≫(秋山邦晴

イメージ 2さてきょうは、ミュージックコンクレートの雄、ピエール・アンリの『エジプト人の死者の書』(1988)。久しぶりの登場だ。ミュージックコンクレートのノイズの騒擾に身を投げ、預け曝す快感。神的境域に漸近する混沌の嵐におのれを空しくする快感。もう、堪りませんねといったところだ。拙ブログ書庫(ピエール・アンリ)にはすでに14稿のアルバムを投稿している。そのうち宗教の題材を扱った作品が4稿ある。すべて圧倒的な感動ものだ。

チベット教の教典『死者の書』を題材にした
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/43678636.html 苦悩する原初の魂の響き。異形の死後中有世界の現前ピエール・アンリ『Le Voyage』(1962)

奇態な現代のミサ曲で、教会聖堂建立のセレモニーに委嘱!されての作品
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/29829938.html <音>に神を聞くピエール・アンリの 『MESSA DE LIVERPOOL』

文豪ビクトール・ユーゴーの死後出された未完の作品『神』からインスパイアーされての舞台音楽作品
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/24451510.html 音と化し「DIEU」<神>を奏でるピエール・アンリ

おどろおどろしいアルマゲドンの終末思想に満ちた世界。厳しく激しい呪いと予言・啓示の言葉に満ちた《新約聖書の最後の一書。九五年ごろローマの迫害下にある小アジアの諸教会のキリスト教徒に激励と警告を与えるために書かれた文書。この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれている。》(YHOO辞書・大辞林より)「ヨハネ黙示録」を題材にした、フランス文化省の委嘱でパリ現代音楽祭にてライヴパフォーマンスした3枚組アルバム。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/22418254.html 遊星的望郷に神の声聴くピエール・アンリの「ヨハネ黙示録」

そしてきょうは≪死者の霊魂が肉体を離れてから冥府の国に入るまでの過程を描いた祈祷書で、冥福を祈り死者と共に葬った。≫(WIKI)とされる『エジプト人の死者の書』を題材とした凄まじいノイズの嵐吹きまくる死後の(道程)世界の現前である。
さきにリストアップした、同じ死後の魂の道行きを説いたチベット教の教典『死者の書』を題材にした『Le Voyage』(1962)では次のことばを紡いだ。

中有にてさまよう魂の旅、それがこの『Le Voyage』(1962)である。あまりバリエーションを多くもたない電子音が、かえって異形を感じさせるから不思議である。死後世界へと旅立った悩める魂の言葉にならぬ苦界のさまが呻きのように鳴らされる電子音の軋み。生きるもののない荒涼とした地を這い、暗闇に渦巻く恐怖へと陥れる轟音などが、とことん意味性が剥奪され無機質に徹した電子音の異形音でパフォーマンスされる。悩み、苦しみの旅にふさわしく、これらの音には色がないのだ。凡百であれば、意味を持たす音で彩色し物語るところを、彼、ピエール・アンリは敢えてそうしない。いや、抑えている。だからこそよけいに異形の死後世界を現前させることになっているといえるのだろうか。アーティフィッシャルゆえに電子が音連れ、招き寄せた、かつて聞いたことのない初めて耳にする死後の声であり、迷える、苦悩する原初の魂の響きである。≫
そしてまた、
奇態な現代のミサ曲で、教会聖堂建立のセレモニーに委嘱!されての作品。こんなのが教会の聖堂に鳴り響くのだ!。その『MESSA DE LIVERPOOL』には次のことばを紡いだ。

≪人はいつの時代であろうが<音>に神を聞くようである。<鈴>の音であろうがノイズであろうが、そこに神の気配を感じ、神の言葉を音に聞くのであろう。≫(ピエール・アンリ『MESSA DE LIVERPOOL』マイブログより)。

同じことばの繰り返しで情けなく気恥ずかしくもあるけれど、今日のアルバム『エジプト人死者の書』(1988)も、また同様、ノイズの轟然爆裂に茫然自失となるとき私に開け示される世界は思念及ばぬ<空・くう>であり、おのれがそれであらぬ無の存在の現成である。そは神を聴くときである。神は見えない。音を連れてそれは漸近する。

    われわれはたれでも「神への漸近線」の上におかれている。

                      稲垣足穂  

≪ラジオから―――ザーとたゅたうラジオ・ノイズに長いこと聞き入っていると、いつしか自分もノイズと一体になってしまう。さらに長いことノイズのただ中に身をさらしていると、ノイズ総体がことばを放ち始める。なつかしい天上音楽のようなこともある。ノイズが一次元あがって「このまま音」から「そのまま音」へ変わるのか。≫(松岡正剛「雑音に関するヒポテーゼの試み」より)

ノイズの騒擾混沌のむこうから確かに音づれるものがあることだろう。アーティフィッシャルな祈りにも<それ>は漸近する。ノイズの果てに崇高を聴くことだろう。エンディングに教会の鐘の乱打を思わせるエレクトロ・コンクレートのサウンドは粛然崇高の余韻の内にそのパフォーマンスの幕を閉じる。総時間およそ67分という長大な死後の世界のサウンドトリップだ。

まさしくピエール・アンリの電子音はアーティフィッシャルの極致に原初の神を招き寄せる。アーティフィッシャルな!祈り!?。

アーティフィッシャルなノイズに揺さぶられる私の世界。ギリシャ悲劇「王女メディア」のことば-「支えのないこの大地は沈むであろう! お前たちは、祈っていない!」をノイズの果てに聴く思いだ。

最後に付けたしの<聴く>ことの原初の聖性のことば。

【≪人の五官は、視覚と聴覚とを主とする。見と聞とが、外界に対する交渉の方法であった。しかしそれは、単なる感覚の世界の問題ではない。「みる」とは、その本質において、神の姿を見ることであり、「きく」とは、神の声を聞くことであった。そのように、物の本質を見極める力を徳といい、また神の声を聞きうるものを聖という。徳は目に従い、聖は耳に従う文字である。≫(白川静「文字逍遥」・平凡社))現代は、いやグーテンベルグの活字文字の発明以後、聞く・話す文化から見る文化へと大きく旋回した。それは神を見失い、聞く事を忘れる事態の到来と軌を一にする。姿かたちを見せぬ神は、音と臭いとともに感知せらる。姿かたちのない神は音とともに音ない・音つれる。≪神々との交通のしかたは、神に祈りを告げること、そして神がそれに応える声を耳聡く聞くことからはじまるのである。・・音こそが霊なるものの「訪れ」であった。・・神の姿は肉眼にみえるものではない。ただその「音なひ」を聞くことだけができた。「きく」ことは、「みる」こと以上に霊的な行為であった・・すでに姿のないものであるとすれば、声と臭とのほかに感知の方法はない。その声も臭もないものを、ただ聖者のみはこれを感知することができた。「聞く」とは、その声と臭とを覚知することをいう語である。≫】(「まさに音自体となり、音ないを聞く≪眼の人ではなく、耳の人と言ってよい≫良寛」)




Pierre Henry : Apocalypse de Jean (1968) musique électroacoustique,voix : Jean Négroni Extraits